第5章 地方発映画という新しいビジネスモデル。

5-1 撮影することが目的ではない。


 撮影が終了した翌日、溝上さん、亀田さん、私のプロデューサー陣は、輪島市、珠洲市、穴水町の役場を訪ねて、市長や町長にお世話になったお礼を申しあげた。そして私はエスティマを運転して大阪へ戻った。
 エスティマは私の仕事関係の師匠筋にあたる制作会社の社長から借りたものだった。
「撮影中は一台でも車が多い方が便利だ。あんたも車でおいでや」
 かねがね白羽監督からそういわれていた。
 その言葉を真に受けていた私は小山社長に相談した。自動車メーカーの仕事を主にしている小山社長は、わかったの一言でエスティマを一台用意してくれ、無料で貸してくれたのだ。
 大阪に戻り、エスティマを洗車して返却したとき、小山社長は
「大きな仕事をしたな。ご苦労さま」
 と私をねぎらってくれた。
 この一言はありがたかったけれど、ご苦労といわれるのはまだ早いと私は心のどこかで思った。
 苦心惨憺して撮影に入った。地元の方々も応援してくださった。新聞やテレビでは連日のように熱烈な報道をしていただいた。おかげで石川県内の人で『能登の花ヨメ』の進捗状況を知らない人はいないんじゃないだろうかというほど知名度はあがった。
 北國新聞に毎日のように掲載される『能登の花ヨメ』の記事を読みたいといって、能登地方では北國新聞を取りはじめる家も多数あったという。
 映画の撮影は祭りに例えられる。
 大勢の人間が参加して一つの物語を撮影していく。連日、現場は熱くなり、一日なんてあっという間に過ぎてしまう。
 撮影が終わると、訪れるのは祭りの後の淋しさだ。潮が引いたように熱も汗も叫びも彼方へ消えると、仕事に比例した大きさの穴が身体や心のどこかにぽっかり開いたようになる。
 しかし撮影の完了は映画の終わりではないのだ。
 特にプロデューサーにとってはそうだ。私たちにはまだまだやることが残っている。
 編集をする一方で、配給会社と打ち合わせてプロモーションのことを考えなくてはならない。映画は撮影するのが目的ではなく、上映して一人でも多くの人に観てもらい、観た人が能登の魅力を再発見してもらうことが私たちの目的であり、映画を観て一人でも多くの人が能登を訪れてくれることが私たちのめざす成果なのだ。

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5-2 撮影終了後に北國新聞を訪れた理由。


 撮影が終了した翌週に、溝上さんと私は北國新聞社の稲垣さんを訪れた。
 ある相談をするためだった。
 まずは無事に撮影が終了したことを報告し、これまでの応援と熱烈な報道に感謝の言葉を述べた。
 本題はその先にあった。
 まだ若干資金が不足している事実を告げたうえで、製作委員会のメンバーに入ってもらえないかと相談したのだ。
 北國新聞社にとっては悪い話ではない。
 製作委員会に入るリスクは責任問題が発生することだろう。責任問題で一番こじれるには、撮影に入る前に事業が頓挫して、それまでの負担をどう処理するかという問題だそうだ。
『能登の花ヨメ』の場合はすでに映像を撮り終えている。リスクといえば、不足している資金を製作委員会のメンバーでどう工面するかを考えていくことだけだ。それで『能登の花ヨメ』という映像コンテンツを主体的に、確実に活用していけるのだ。
 ましてや『能登の花ヨメ』の場合、大阪のF氏に借りている一千万円を除けば、文化庁や奥能登開発基金などの公的資金と、返却義務のない企業協賛金で製作費をまかなっていた。
 つまり上映後の売り上げは、約半分が劇場、約四分の一を配給会社がもっていくとしても、残る約四分の一はほぼ利益として計算でき、製作委員会のメンバーで分配できるのだ。
 製作委員会の申し出とそのメリットを聞いた稲垣さんは喜んでくれた。同時に疑問も抱いたようだ。
「どうしてそんないい話を譲ってくれるの?あなたたちで儲ければいいんじゃないの?」
 儲けるという点でいえば稲垣さんの意見は真っ当だろう。
 撮影も終了した。配給会社も決まった。あとは上映後の、ころがりこんでくる利益を計算して喜んでいればいい。
 私たちはそうはしなかった。
 お金のことなら利益の何パーセントかはプロデューサー費としてもらうことができる。ビジネスマンとしては金を儲けることは大切かもしれないが、それ以上にプロデューサーとして挑戦したいことがあったのだ。
 新しいビジネスモデルを立ちあげたかったのだ。本当の意味で石川県発の映画をつくりたかった。究極を言えば石川県の財産になる映像コンテンツをつくりたかったのだ。
 地方を舞台にした映画はたくさんある。いや、地方映画花盛りといっても過言ではない。しかしそれは物語と舞台を地方にしているだけで、実は中央の資本で、中央主体でつくられているものがほとんどだ。
 すると利益は中央にしか落ちない。映像コンテンツの利用も中央主体ということになる。地方の映画のはずが地方の財産とならないケースが多いのだ。
『能登の花ヨメ』ではこの矛盾を打破したかった。
 私たちがめざしたのは、石川県の行政や企業や支援者をネットワークして、資金を含めた製作と制作の環境を整えていく。石川県の資本で、石川県の人とつくっていく。中心になるのが製作委員会で、撮影終了後は製作委員会が『能登の花ヨメ』という映像コンテンツを管理して全国へ発信していく。
 利益も石川県に落ちる。メンバーが石川県の企業なら、利益の一部を震災復興に活かすという案も賛同を得やすい。撮影し終えた映画が、石川県や能登のために役立たなければ、この映画の存在意義がなくなってしまう。
 誰に迷惑をかけることもなく、うまく利益を生み出して、この試みが成功すれば地方映画の新しいビジネスモデルになるだろう。石川県の成功は他の地方にも波及して、自分たちの手で自分たちの映画をつくろうという積極的な動きに拍車がかかるはずだ。
 地方の時代といわれている。文化もどんどん地方から全国へ発信していくべきなのだ。
 その意味でも製作委員会のメンバーには地元の有力企業に参加して欲しかった。
 そう説明すると、稲垣さんは
「よくわかりました。そこまでお考えでしたか。ありがとうございます。さっそく社長に話してみます。社長も喜ばれると思います」
 と理解を示してくれた。
「しかしよくここまでやりましたな。正直なところいつかはポシャると思ってました。いや、めげない勇気というものがあるんですね。勉強になりました」
 そうおっしゃっていただけたけれど、資金面でここまでくるのは本当に大変だった。

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5-3 石川県発の映画にしましょう。

「本当の意味での、石川県発の映画にしたいんだよね」
 溝上さんがそういったのは、確か『海辺のテーブル』の脚本作業にかかっているときだった。二〇〇六年の終わり頃だっただろうか。
「石川県の映画だから、石川県でお金を集めて、石川県の人と石川県で撮影して、石川県の財産にする。そんなことができれば理想なんだけどね」
「いままでにそんな映画はなかったんですか?」
「ないですね。だって手間暇がかかるでしょ」
 溝上さんがいわんとしていることはわかった。
 前にも書いたけれど、東京と石川県では経済規模が違う。一千万円を集めるにしても、東京なら一社ですむところを石川県なら数社必要になる。ということは手間暇は数倍かかるということだ。
 プロデューサーとしては東京の放送局やビデオ会社と組んで、がさっと製作費を集める方が楽だ。しかしそうすると上映やその後の主導権は東京の会社に握られる。利益が優先されるので地方貢献は後まわしになってしまう。
 それでは地方映画といえども、地方を舞台にした映画であって、地方のための映画でははない。溝上さんは地方の財産となる映画づくりにチャレンジしようというのだ。
 そのためには製作費は石川県内で集めなければならない。中心的役割を担ってくれたのが藤岡さんだ。
 藤岡さんは仕事の関係で十二月のひと月と、二〇〇七年の二月と三月、さらに五月から七月前半まで金沢に滞在することになった。
 その間、白羽監督や溝上さんと私は頻繁に金沢を訪れ、藤岡さんがセッティングする企業の担当者に映画の趣旨説明をしてまわった。しかし二〇〇六年は具体的な成果はまるでなかった。
 中央と地方の違いは経済的なことだけではなかった。
 決断が遅い。というよりまわりの状況をまず確認してから判断する。よく言えば協調性を尊ぶということだけれど、悪く言えば主体性や自主性がないということになる。企業へ説明にいってまず聞かれるのは、
「他にどこへ話をもっていかれましたか?」 
 ということと
「反応はどうでしたか?」
 ということだった。
 はじめは正直に苦戦していることを伝えたが、中央と地方の違いがわかるとこちらも芝居をはじめた。もともと私は関西人。商売におけるはったりは伝統芸のようなものだ。
「ええ、○○さんがけっこう乗り気で。今なら一番乗りはウチやなっておっしゃってました」
 などとはったりをいって相手の気を引いた。
 また、東京の企業と違って、地方の企業の場合は一度の説明で結論がでることはない。断る企業は初回の説明の後で“なかったことに”ということになるけれど、前向きに検討したいとおっしゃる企業には、まずは担当者と、次に上司と、次には役員という具合に、二度も三度も伺わなければならない。
 私たちが月に何度も金沢へ通っていたのは、協賛を検討中の企業へ後押しも含まれていたのだ。
 年が明けるとやっと協賛企業が決まりかかった。この企業に初めてお願いに伺ってからもう三ヵ月がたっていた。
 石川県には、金沢・のと共栄・北陸・鶴来・興能という五つの信用金庫があって、藤岡さんが取引のある金沢信用金庫の方に映画の話を持ち込むと、能登の宣伝になる映画なら地元密着型の銀行としては協力しないわけにはいかないと前向きな返事をくださった。
 二度三度と打ち合わせを重ね、全体会議の席にも招かれ、五つの信用金庫の役員の前で趣旨の説明を行った。協賛金額は理事長会議に委ねることにして、全体会議では協賛への了承を得ることができた。
 これは大きな一歩だった

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5-4 地方気質を逆利用する。


 藤岡さんが、まず銀行へ話をもっていったのにはわけがある。藤岡さんは協賛の第一号は銀行か新聞社にと決めていたという。
 これは石川県民の気質を意識したもので、どこが協賛に名乗りをあげるかでその後の展開が大きく変わるからだ。
 おそらく東京の企業が一社目だったら、石川県の企業の重い腰はさらに重くなったことだろう。
 一社目が信頼を第一とする銀行というのも藤岡さんの狙いだった。石川県の企業といえども、誰も知らないIT企業なら反応はもっと鈍かっただろう。
 その意味では信用金庫の決定は大きかった。
 つづいて北國銀行も協賛に参加してくださることになった。
 以後、金沢医科大学、北陸放送、NTTドコモ北陸、大和ハウス工業と協賛会社が決まっていった。
 大和ハウス工業は大阪と東京に本社機能を持つ総合ハウスメーカーで、これほどの企業になると映画やテレビやイベントなど、さまざまな協賛依頼が持ち込まれる。私たちの企画を強力にプッシュしてくださったのが、石川の支店長だった。
「震災復興のために大和ハウスも何かをするべきだし、能登は何といっても前会長が愛された所。協力に際しては『能登の花ヨメ』と他の映画をいっしょにするべきではない」
 本社の上層部にそう直談判してくださったと聞く。
 そして北國新聞社だ。
 企画段階から稲垣さんにはいろいろな相談に乗っていただいていた。それまではあくまでも個人的な範囲に限ってのことだった。
 それまでというのは能登半島地震までのことを指す。
 その後の私たちの対応を知った北國新聞社の社長は、おおかたの石川県の方々同様、私たちを見る目を改めてくださった。
「能登を舞台にした映画の制作を進めていた監督の白羽弥仁さんらが、能登半島地震で脚本の練り直しを思い立ち『能登の花ヨメ』に切り替えることにした。あかるさを引きだし、生きる勇気をわきたたせる映画に、という志に共感する。北國新聞社も協力する」
 “あかるさを描く志がいい”と題された社説の一文で協力を表明してくださった。
 さらに主演が田中さんに決まると、協賛は決定的なものになった。田中さんは北國新聞社のキャンペーンキャラクターを長年務めているからだ。
 協賛が決定してからは何かにつけて記事にしてくださり、そのパブリシティの量は、金額に換算すると莫大な額になるはずだ。
 さらに効果になると、県内カバー率七十パーセントを超える新聞の記事だ、金額に換算すると計り知れない額になる。

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5-5 文化庁の助成金という危ない橋。


 映画は賭けではなくビジネスだというのが溝上さんの持論。だから今回の企画段階でも決して無謀なことはしなかった。
 しかし唯一、賭けにでたことがあった。文化庁の助成金に関してだ。
 今回の製作費については当初から文化庁の助成金をあてにしていた。
 文化庁は日本文化の向上のためには、さまざまな芸術活動を広範囲に支援している。
 それは映画に限ったことではなく、文学、音楽、演劇、絵画、舞踏、演芸、さらには伝統芸能と多岐にわたる芸術の振興をはかっている。
 映画に関していえば、「日本映画・映像振興プラン」があって、映画製作の支援や国内外での上映支援、さらには人材支援などを行っている。
 日本で映画を製作する場合、製作者がまず考えるのは「文化芸術振興費補助金」の支援を得ることだろう。
「意欲的な企画作品の映画製作」、「新人監督やシナリオ作家を起用した映画製作」、「地域において企画・制作される映画製作」、そのいずれかに該当する映画企画で、製作費が五千万円以上、上映時間が一時間以上の企画であれば審査に応募することができる。
 公募は年二回行われる。
 支援額は、およそ映画製作に要する費用の三分の一まで。審査に通ったからといって満額降りることはめずらしく、たいていは製作費の三分の一の、その七十%くらいが多い。
 私たちが審査に応募する予定でいたのは、平成十九年度の「地域において企画・製作された映画製作部門」、その第二回目の公募だった。
 能登半島地震によって脚本が大きく変わり、印刷脚本の完成を待って応募するとなると、第一回の公募はとても間に合わない。しかたなく私たちは、締め切りが平成十九年七月二十日の第二回目に応募した。
 審査は有識者で構成されている文化芸術振興費補助金審査員会が行う。各委員が脚本を読んで選定していくのだ。
 プロデューサーによるプレゼンテーションや派手な企画書などは一切受け付けないで脚本の良し悪しだけで選別していく。脚本のできがすべてなのだ。
 第二回の「地域において企画・制作される映画製作」へは十二本の応募があったという。選ばれるのはそのうちの三本。四倍の競争率というわけだ。
 脚本の出来に自信はあったものの、審査である限り百パーセントの確証はありえない。もし落ちるようなことがあれば、奥能登開発基金からの一千万円もなくなってしまう。
 さらに私たちプロデューサーを不安にさせていたのは発表・交付の日だ。
 正式交付は十月十日。
 その日は実に『能登の花ヨメ』クランクインの当日だったのだ。
 能登半島地震によって脚本を練り直し、半年後に撮影という強行軍だったから、文化庁への応募も平行作業になってしまったことは仕方ないことだ。
 問題は万が一、落選した場合だ。
 それでなくても製作費の集まりが鈍いなかで、さらに三千万円相当の金額をどうやって穴埋めすればいいのか?
 集める算段がたたない場合は中止するのか?
 キャストも決まっている。スタッフも決まっている。みんな能登入りをすませて晴の撮影初日を迎えている。そんな状況で中止なんてできるのだろうか?現場が動きだしているのに中止をしたら、プロデューサー陣と白羽監督は、一生、映画界で仕事をすることはできないだろう。
「落っこちたら海へ飛び込むしかないよね」
 溝上さんは自嘲気味に呟いたけれど、それは悪い冗談ともいっていられなかった。落ちたときのことを考えると夜も眠れないというのが正直な気持ちだったはずだ。
 そして結果は、見事合格だった。それも製作費の三分の一の満額、三千百万円が支援されることになった。
 この結果は腰が抜けそうになるほどうれしかった。
 地方を舞台にした映画で、さらに震災の復興を映画で支援する企画が評価されないわけがないとは思った。あれほど修正を重ねて、ときには冷たい空気が流れるほど意見をぶつけあいながら磨きあげていった脚本が落ちるわけがないとも思っていた。
 ただ確証は誰も持てなかったのでつねに不安はつきまとい、つい最悪の事態を想像することをやめることはできなかった。
 目の前では撮影が行われている。その横で東京にいる溝上さんから合格の連絡を受けた亀田さんと私は、うれしさのあまり、思わずその場にしゃがみこんでしまった。

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5-6 汗はかくけど、口はださない。


 さて、ここで地方発の映画の撮影にまでこぎつけることができた要因について考えてみたい。
 まだ上映もしていない映画の成功要因なんて気が早いのでは、と思う方もいると思う。地方発の映画ビジネスという点では上映後の結果が肝要だということはよくわかっている。しかし上映はこれからだからその結果については、いまは何も言えない。
 しかし私たちは撮影まではこぎ着けたのだ。上映は目前に控えている。
 映画を作ろうという企画は、毎年、約一千本ほど出回るそうだ。その中から撮影することができる企画は半分以下の三百本くらい。さらに劇場にかかる映画はその中のさらに半分以下の約百本だという。
 ということは、映画の企画は撮影前にぽしゃるものがほとんどということになる。厳しい現状で、時間はかかったとはいえ、私たちは撮影を行うことができた。その要因を考えたってバチはあたらない。
 第一の要因は、地元の方との関係だろう。
 自分たちで企画をすすめなければならなくなってからというもの、私はたくさんの石川県の方々と会った。しかし誰ひとり嫌な人はいなかった。高飛車の人も、高慢な人も、恩義がましい人も、こざかしい人も自分勝手な人もいなかった。
 制作スタッフにもそんな人がいなかったと思う。
 類は類を呼ぶという。私はそれを絶対的な真実だと思っている。人生はすべて自分の合わせ鏡で、自分以上のことも、自分以下のことも起こらない。自分たちがちゃんとしなければ、ちゃんとした人とは巡り会うことはできない。
 石川県の人と、石川県のお金で映画を作っていこうとしたけれど、だからといって石川県の人からああしてほしい、こうしてほしいという要求は一切なかった。石川の方々は、県庁の堀岡さんも、北國新聞の稲垣さんも、冨士交通の藤岡さんも、映画の内容については一切口を出さず、制作スタッフにまかせてくれた。
 これは大きなことだと思う。素人の思いつきほど現場を混乱させるものはない。
 もし、そんな要求がたくさんでて、一つひとつを取り入れていたら、映画はつぎはぎだらけの、地元の人が自己満足するだけのものに成り下がっていただろう。
 また、石川県の人が、金はだし、汗はかくけれど口はださないからといって、制作スタッフは好き勝手をしたかというと決してそんなことはない。ロケ場所や能登の風習など、石川のことは石川の人に聞いて、その意見を尊重して創っていった。
 石川の人は映画のことはあまりよくわからない。映画のスタッフは石川のことはあまりよく知らない。ならば知らない部分や不得意な部分は互いに補っていっしょに創りましょうというのが、今回最後まで貫かれたスタンスだった。どちらが上でも、どちらが下でもない。同じ目標にむかって進む同士・・・。
 単純な話しだけれど、参加する人数の大きなプロジェクトほど、単純なことがむずかしくなる。
『能登の花ヨメ』の場合は、それが実行できた。俳優も含めた映画スタッフと、石川県の人とのつながりは当初の思いを遙かに超えるほど緊密で深いものになった。
 大江千里さんが創った映画の主題歌「始まりの詩、あなたへ」を岩崎宏美さんが歌うことになり、岩崎さんはキャンペーンで何度か金沢入りをした。
 岩崎さんは金沢入りをするたび、地元の方と映画スタッフのつながりの強さに感動して、私ももっと早くこの企画にかかわることができたらよかったのにとおっしゃってくれた。また、遅れを取り戻すために、可能な限り、何度でも金沢や能登へ通いたいとおっしゃってくれた。
 岩崎さんの言葉と想いは、プロデューサーとして本当にうれしかった。

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5-7 素敵なキチガイがいるか。


 第二には、企画を強力に推進する人がいたことだろう。
 撮影にこぎつけるまでの白羽監督の執念はすさまじいものがあったし、私もそうだし、藤岡さんも、自分の仕事のフィールドを超えた動きをした。その行動が人の心を打ち、人を動かしたのは事実だ。
 ビジネス的観点から見ると、映画づくりに参加することはリスキーなこと以外の何ものでもない。ヒットしたら利益が生まれるかもしれない。あくまでも予測で、行動に対する対価が読めないからだ。
 それでも参加するというのは、お堅いビジネスマンからみれば「?」ということになるのだろう。
 支援をお願いするために企業まわりをしているとき、説明を終えたあとで相手のビジネスマン、特にお堅い企業の方の何人かがこう言った。
「映画って聞けば聞くほど、好きじゃないとできませんね」
「ほんと、儲かりませんからね。好きじゃないとできませんよ」
 相手はにこやかにおっしゃり、私たちもにこやかに返すが、相手の本音はよくもまあこんな危険なことをしているな、ということだろう。
 確かに儲かる儲からないという点でいえば、儲かる仕事は他にいくらでもあるだろう。それでも参加するということは、特に誰に強制されたわけでもないのに参加するということは、好き以外の何ものでもなく、それが他の人から見れば狂気の沙汰に映るのだろう。
 しかし机上でそろばんを弾いているだけの人間に、どれだけのことができるだろう。映画に限らない、どんな仕事でも成果というものは、どこか採算を度外視した行動を行った者にのみ降りてくるものではないだろうか。
 物作りに携わる人間には、特にそういえる。志を高く掲げ、がむしゃにがんばってきたクリエータが会社を興し、経営者になって数年もすると、創るものがまったく面白くなくなるというのはよく聞く話しだ。
 映画の撮影中、撮影監督の山本さんと俳優の本田博太郎さん、そしてプロデューサーの溝上さん、亀田さん、そして私の五人で、輪島でお気に入りの寿司屋さん「伸福」で食事をした時だった。
 韓国の映画監督キム・キドクの話題となり、キム・キドクがいかに素晴らしいのか、いかに狂っているのかについて、山本さんと本田さんが熱く語ったあと、山本さんがこう言った。
「現場で素敵なキチガイと出会いたいんだよ。素敵なキチガイと仕事がしたいんだよ」
 ここで山本さんが素晴らしいなと思ったのは、“キチガイ”ではなく“素敵なキチガイ”と表現したところだ。“素敵な”がつかない“キチガイ”は、現場と作品を混乱させるだけなのだから。
 素敵なキチガイが揃った現場は熱い方向へ転がっていく。企画段階も同じで、素敵なキチガイがいるかいないかで推進力も大きく変わっていく。
 映画の撮影中、私の母が亡くなった。いったん大阪に戻り、野辺の送りを終え、一週間後に現場へ戻ってきたとき、私は泉さんに呼ばれた。
 私がいない間に、泉さんは私のこれまでの取り組みを誰から聞かれたようだ。そして戻ってきた私にこう言った。
「おまえはバカだ。いや、大バカだ。けれど一人くらい大バカがいないと面白いものはできない。世の中、中途半端なバカばかりだからな。母上はちゃんとお見送りをしたな。よし」
 泉さんに頭をさげて、現場へ戻る途中、あまりのうれしさに涙がこぼれた。

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5-8 信頼できるプロデュサーの見つけ方。


 次に、映画をつくって地方の活性化を図ろうと企画したとする。誰だっていい人と出会いたい。確かな人と仕事をしたい。さて、どこに相談をもっていけばいいのだろう。
 今回、私がこの映画づくりに参加させてもらって一番ラッキーだったことは、溝上さんというプロデューサーと出会えたことだ。亀田さんも、尊敬できる先輩として溝上さんを慕っている。
「あんたなぁ、初めてやからようわからんと思うけどな、初めての仕事でいいプロデューサーと出会えてんで。この業界はな、見た目は紳士やけど実は詐欺師や山師みたいなプロデューサーがうろうろしているからな」
 映画を企画しているとき、金沢へ向かう車内で、あるいは夜の飲み屋で白羽監督は何度もこの話をした。
 確かに当初は白羽監督のいわんとすることがよくわからなかった。映画の撮影を終えて公開を間近に控えた今ならよくわかる。
 前にも書いたが、映画の企画は年間に一千本近くあがり、その大半が死ぬ。ということは映画を撮りたくても撮れない人がたくさんいるということで、中には撮るためだったら口八丁手八丁、素人を騙してでもという輩もいるという。
 能登半島地震の直後、石川県庁や北國新聞社に震災復興基金をあてにした映画製作の企画がどれほど届いたことか。私はその山を見てびっくりした記憶がある。それ以上にびっくりしたのは、企画自体が金目当ての域をまったくでていない間に合わせのものばかりで、企画の内容になると実にひどいものだったと関係者が嘆いていたことだった。
 金があるとわかると群がる。いや、群がらなくては生きていけない。ある意味、それが映画プロデューサーの悲しい習性なのだ。
 しかし溝上さんは少し違う。
 口数は少ないし、業界っぽいところは少しもない。俳優と飲むより休日に釣りを楽しむ時間を選ぶ人だ。撮影中に立場を利用して女優のメールアドレスを聞き出したり、食事へ誘うより、現場のスタッフと食事をしたり、ホテルの自室で明日の展開を助監督と打ち合わせするような人だ。
 この映画を石川発の映画にしようなんて試みを考えること自体、拝金主義のプロデューサーとは一線を画している。まずは作品のことを第一に考えている。そしてビジネスとして映画を成功させることを考えている。ゆえに俳優からの信頼もスタッフからの信頼も厚い。信頼が厚いから現場はうまくまわっていく。
 実直だから毎年コンスタントに映画を撮ることはできない。しかし実現した作品はどれも良質で、ビジネス的にも失敗するようなことはない。
 しかし初めて映画を企画しようというすべての人が、溝上さんのような人と出会えるとは限らない。
 どうしたらいいのだろうか?
 一番さけたいのは、誰々の知り合いに映画関係者がいるという場合だ。
 その誰々が良質の映画人ならいいけれど、映画人といっても実に多様で、その人がその企画にベストとは限らない。知人の紹介となるとむげに断ることもできず、ホラー映画を得意としている人が地方の人情ドラマをつくるなんてことになるかもしれない。
 地道に作り上げていく人。自分の世界にかたくなにこだわっている人。強引に力業で作っていく人。口先だけで金儲けした興味がない人。プロデューサーにもいろいろな人がいる。
 一番いい方法はレンタル店へ行って、企画の世界に近い作品をピックアップしてその製作者を洗い出すことだろう。十本ほど選んで、そこに重複するプロデューサーがいたら、企画に近い世界を得意とするプロデューサーと見て間違いないだろう。
 重複することはなくても、近い世界のプロデューサーがいたらネットでその人を検索すればいい。映画関係者のプロフィールはかなり細かいところまで整理されているので、検索をかければそれまでに携わってきた作品を知ることができる。
 プロデューサーの人柄を探るには作品を調べればいい。百パーセントとはいいきれないけれど、大人になるとそれまでの生き方が顔に表れてくるように、作品にもその人柄が表れてくるものだ。
 作品と人は切っても切れない関係にあるのだから。

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5-9 映画のシステムは変わる。


 その世界にどっぷりはまったものには当たり前のことでも、部外者にとってみれば「?」ということがある。はじめて映画の製作に参加してみるといろいろな発見があった。
いいこともあるし、おかしいと思うこともあった。
 制作スタッフのキビキビとした動きは、やはり気持ちの良いものだった。
 撮影部にしろ、照明部にしろ、録音部にしろ、トップの下にチーフ、セカンド、サードといった若い人たちがついていて、何かひとつでも獲ようという狩人の目を光らせながら、指示のもとでテキパキと自分の仕事をする。原動力は、金ではなく、肩書きでもなく、きっと夢だろうと思わせる職人の誇りや厳しさがすでに肩や背中に息づいているようで、その動きを見ているだけでうれしくなる。
 文句をいうことでしか自身を主張できない大企業の若者とは正反対だ。寡黙に、黙々と動く。間違いなく彼らの動きが映画の質を左右している。
 その昔は広告プロダクションにもこのような若者はたくさんいた。上司の厳しいチェックにも耐え、修正、修正で睡眠時間を削られても、少しでも何かを盗んで上をめざす野良犬のような目をした若者がたくさんいた。
 しかし広告がビジネスとして確立されてからは、“就職”しにきた者が大半になった。昨今の広告の低下は、このことと無縁ではないと思っている。
 一方で映画界が遅れているなと思うことは、制作ではなくビジネスとしてのシステムだ。
 たとえば収益の分配。私はまったく知らなかったけれど、一千八百円の入場料の約半分を劇場がとる。残った半分、つまり一千八百円の四分の一を配給会社がとり、制作には残りの四分の一の四百五十円しか入らないのだ。
 産みの苦しみを乗り越えて制作した者より、劇場を持っている者の方が儲かるのだ。ましてや上映を望む映画はたくさんあるので、劇場の要求は強気になる一方で、ある額以上の宣伝をするのならという条件をつけてくる。
 それでなくても製作費の乏しい独立系の制作会社には辛い現実だ。映画界の人は、長年そのシステムで動いているので、こんな劇場依存型のシステムをおかしいとは思っていないようだけれど、他の世界からきた私にしてみれば制作者の取り分が四分の一だなんて驚きだ。
 制作者の取り分が少しでも多くなれば、同じ質の映画を、少しでも低い製作費で撮ることができるのだ。そうなると映画制作に参加できるハードルはぐっと低くなる。
「パッチギ」や「フラガール」など名作を連発しているシネカノンという会社が、制作と配給以外にも劇場を持つようになったのは、こんな映画界の旧態依然としたシステムへの布告だと思う。
 しかし時代は変わる。映画のシステムも必ず変わる。
 媒体依存型のシステムを確立した広告代理店が、ここにきて苦戦している。いや、変革を余儀なくされている。年々、インターネットにおける広告費の割合が高まっているからだ。
 これと同じことが映画業界にも言えると思う。“映画を観る場所は劇場”という概念がインターネットをはじめとする高速通信網の発達で変わるはずだからだ。
 これまでは劇場上映をあきらめると自主上映しか手段はなかった。今後はインターネットで上映するなんてことも十分考えることができる。有料にしたり、広告をとったりで、収益を得る方法はいろいろと考えればいい。
 この傾向は、地方で映画を作ろうという人には歓迎すべきことで、いままで以上に少ない負担で制作することができるようになるのだ。インターネットの優れたところは、いい物さえアップデートすれば、あっという間に広まるというところにある。
「何いっているんだよ、映画は劇場で観なければ」
 そう言う人はきっといる。
「何がインターネットだよ、広告はテレビだよ」
 と言っていた広告代理店が、今では顔を青ざめさせてインターネット系の優良会社を高い金を払って吸収している。要は、テレビでもいい、イベントでもいい、自分の都合のいいシステムを一番だと思いたいだけなのだ。広告制作者も同じで、テレビCFや新聞やポスターが広告の王道だと思いたい。新しいシステムを認めたくない心が、インターネットを見下したり、否定したりするのだ。
 時代は自分の都合などおかまいなく前進していく。消費者はより便利で、より安いものに引かれていく。
 同じことが映画界にも言えるはずだ。インターネットや高速通信の発達は、確実に映画の観方を変えるだろう。大型の劇場がシネコンへと形態を変えることで生き延びてはいるが、その次のカタチとなると見えていないはずだ。劇場はますます淘汰されていくことになるだろう。
 習慣なんてあっという間に変わる。
 映画は劇場で観るもの、そう信じるところが旧態依然なのだ。

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5-10 熱湯に放りこまれた蛙。


 最後に私が使い込んでいた五百万円の結末をいわなければいけない。
 最初に五百万円を映画の口座に振り込んだのは、二〇〇六年十月だった。
 溝上さんは私の事情を察してくれて、残りの振り込みは撮影がはじまるまで待ってくれた。
 いよいよ撮影も間近になると、スタッフの事務費や移動費や宿泊費など、目にみえて出費がかさんでいく。溝上さんから残りの五百万を振り込むようにと指示があったのは七月の終わり頃だった。
 私の算段は、その期の事務所の決算を黒字にして、銀行からの融資の一部で返済することだった。だからその期は是が非でも売り上げをあげて、決算を黒字にしなければならなかった。
 いまから思えば、私は経営者として失格だった。
 使い込んだ資金のために事務所の売り上げをあげなければならないと考えるのが間違いで、事務所の経営という観点にたてば、事務所のために黒字にしなければならなかったのだ。
 私は三十歳で独立をして以来、事務所は右肩あがりの成長をつづけてきた。四十歳あたりが頂点だった。
 広告賞も獲った。事務所も大きくなった。スタッフも雇った。仕事を受け入れる体勢は整っているのに、四十歳以降の売り上げは下降線をたどっていった。電話の鳴る回数が減り、打ち合わせテーブルはに誰もいない時間が増え、事務所の灯りが落ちる時間が早くなっていった。
 凋落の原因がわからなかった。いや、正確にはわかろうとしなかったんだと思う。自分を真摯にみつめ、現状の自分を認める勇気と、時代や状況の変化に対応する柔軟さと、この十年の自分をご破産にして一からやり直すがむしゃらさもないまま、日々の泡におぼれ、夜になると酒で自分をごまかすばかりだった。
 いつも陽気で、忙しい、右肩あがりの頃の西林さんを演じているだけだった。クリエイトすることより、クリエーターであることを演じていたのだ。
 そんなときに舞い込んできたのが映画の話しだった。
 私が『能登の花ヨメ』の制作に参加して一番大きな収穫と思っているのは、映画にでることでも、映画プロデューサーとクレジットされることでもない。見失っていた大切なことに改めて気づいたことだった。それは目標を持つことの大切さと、モノをつくりだす喜びだった。
 三十代の頃はたくさんの目的があった。もともと欲深い方だったので、それまで手にすることができなかったことはみんな手に入れたかった。
 なにをして成功したとするかは人によるけれど、私の場合はあるとき「やった」と思った瞬間があったのだと思う。それは売り上げが億を突破したときかもしれないし、失敗すると思っていたやつらを見返したと思ったときかもしれない。家やら車やら海外旅行やらイタリア物の服など、欲しいと思っていた物をことごとく手に入れたときかもしれない。
 どこかで「あがり」と思ったのではないか。そこから凋落がはじまったのだ。小さな成功に野良犬の目を萎えさせてしまったのだ。ちっぽけな達成にあぐらをかいてしまったのだ。取るに足らない成果に増長して目標を見失ったのだ。
 あの頃は仕事をするのが楽しかった。一枚のチラシ、一枚のポスター、一頁の新聞、一冊のパンフレットをつくることが楽しかった。最後までやり終えて刷りあがりを手にする一瞬が最上の喜びだった。
 楽しいということは手応えがあるということだ。手応えがあるということはステップを登っていることであり、目標に向かって進んでいる証拠だ。目標がなければ楽しみもみいだせない。
 それに気づかせてくれたのが映画に関わったこの二年という月日だ。
 熱湯に蛙をいきなり放り込むとあまりの熱さに飛びだす。しかしぬるま湯に蛙を入れてじわじわ温度をあげていくと蛙はその変化に気づかないまま、どんどん死にむかっていくという。
 思えばぬるま湯に入った蛙が私だった。そのぬるま湯から蛙をひっぱりだし、別の熱湯に放り込んでくれたのが映画だった。
 映画の話しが持ちあがり、私は右も左もわからない世界へ飛び込むことになる。はじめは興味本位、華やかな世界に接したいというミーハー根性まるだしの参加だったけれど、途中からはそんなことはいっていられない状況になった。
 映画を撮りあげたいという一心で金沢や能登へ通い、大阪で話しを聞いてくれそうな人がいれば説明に行き、東京で協力してくれそうな人がいると知れば駆けつける。お金なんて一銭も入ってこないのにこの映画を完成させるという目的のために動きまわる姿は、まるで成功に飢えた野良犬で、それは十年前の私の姿だった。
 金沢で打ち合わせをして、そのまま夕方に東京へ入り、最終ののぞみで大阪へ帰るなんてことができたのも、夢のまた夢と思っていた映画が決して夢ではなく、たとえ子供の歩みほどの速度であっても前進しているという手応えがあればこそだった。
 映画のことならできるのに、事務所の仕事でできないわけがない。
 できなかった理由はただひとつ、目的を見失っていたのだ。
 何をしたいのか、何をめざしているのか、今一度方向を明確にすれば、次に打つ手が見えてくる。私は映画のことで奔走する間に、事務所の停滞の理由がはっきりとつかめてきたのだ。
 おかげで二〇〇七年五月末の決算は、なんとか黒字にもっていくことができた。決算書をとどけて銀行から融資も降りた。そして私はそのなかから五百万円を映画の口座へ振り込むことができた。

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