第4章 地震が能登を襲う。

4-1 三月二十五日の能登半島地震。


 三月二十五日は日曜日だった。
 いつもより遅めに起きて、ねぼけまなこでテレビを見るとはなしに見ていた。そのとき、弱い揺れを感じた。
 地震だ。
 阪神大震災を経験してからというもの、たとえ弱い揺れでもいつかドーンと強い縦揺れが襲ってくるかもしれないと恐怖に怯えるようになっている。恐怖は経験から生まれのだ。
 しかしそのときは弱い地震がつづいた。いつもより長い。
「弱い地震が長くつづくと、どこかで大きな地震が起こった可能性があるんだって。この前の理科の時間に先生がそう言ってた」
 次女がそんなことをいう。
 弱く長い地震が収まってすぐ、テレビで速報が流れた。
 能登で震度六強の地震!
「パパ、大変!」
 速報をみて妻が叫んだ!
 テレビは特別番組に切り替わり、能登の被害が伝わりはじめる。
 輪島や穴水の知り合いに電話をかけた。もちろん伝わらない。電話は緊急時にほとんど頼りにならない。安否を確かめるメールを送るばかりだった。
 白羽監督に連絡をとった。午前中はとりあえず様子を見ようということになった。午後に白羽監督から連絡があって、明日、能登へ入るという。
 白羽監督は阪神大震災の被災者で、親族の方も数名亡くしている。自分の経験を照らし合わせると、いてもたってもいられないのだろう。
「いっしょにいかないか?」
 行きたい気持ちは山々だった。穴水の岡崎さんや橋本さん、輪島の川原さんや大積さんや深見さん、能登島のさとみさん他、みなさんの安否が心配だった。命や身体に別状はないとしても、精神面ではどうか、建物は大丈夫なんだろうか。心配はつきない。
 しかし私のスケジュールは、翌日からの三日間ぎっしり詰まっていた。
「しゃーない。気にせんでええ。オレひとりで行ってくる」
 白羽監督は震災の翌日に輪島、穴水入りをした。
 車には大量のミネラルウォーター、お菓子、そしてサランラップを積んでいた。
 サランラップ?
 お見舞いに行く先々で意図を問われたそうだ。答えを聞いてみんな感動した。
 ライフラインが傷ついている震災後は水が何より貴重だ。食事のとき、皿やお椀にサランラップを巻いてから使うと、食べた後はよごれたサランラップを捨てるだけでいい。皿やお椀を洗う必要がなくなるのだ。
 阪神大震災の被災者しか知らない、被災後の知恵だった。
 また、監督は店を営んでいる人にはいっときも早く営業するように勧めた。
 能登島のカフェ「海とオルゴール」のさとみさんも、地震のあとは悲しみに泣いているばかりだった。
「泣いていても何も前進しない。店が営業できる状態なら店の灯りを灯すことだ。その灯りが被災者のこれからの希望になる。お客は来ないかもしれないが、今は売り上げよりも店の灯りを灯すことが大切なんだ」
 白羽監督の言葉にさとみさんは心動かされ、翌日から営業をはじめた。
 しかし営業したくてもできない人もいた。
 穴水の橋本さんの店「幸寿司」は破滅的な被害を受け、とても営業ができる状態ではなかった。
 橋本さんは気骨のある人だからいつまでも悲しんでいることはなかった。「幸寿司」のファンは多く、再建を望む声はいたるところからわきあがった。
 かくして「幸寿司」は七月九日に新しく店をオープン。穴水の名店として全国にその名をとどろかせている。

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4-2 考えて、考えて、再度企画を変更する。


能登半島地震がもたらした被害は地理的なものだけではなかった。
 一番大きな被害は風評被害だ。
 能登はこれといった産業のない町。一番大きな産業といえば観光だ。
 震災後、地震による道路や建物の被害は報道されても、風情被害の大きさはなかなか報道されていなかった。テレビでは家の崩壊や道の陥没は絵になるけれど、観光客の減少を絵にするのはむずかしいからだ。
 地震が能登を襲ったことで、実は私たち制作者も戸惑っていた。
 このまま地震なんて知らないという顔で『海辺のテーブル』を撮るべきなのか?撮っていいものなのだろうか?
 能登から監督が戻り、現状の報告を受けると、私たちの気持ちはひとつに収束していった。観光の町がこれから受けるであろう風評被害を考えると、地震なんて知らないという顔で能登を舞台にした映画を撮れるわけがない。
 私たちは能登の魅力を伝える映画をつくろうとしてこの企画をはじめたのだ。その舞台が震災で傷ついた。ならばその現状を見て見ぬ振りをするのではなく、しっかりと現状を見据えて、能登の将来に少しでも貢献できる映画を撮ることこそが、今の私たちの存在理由ではないだろうか。震災を経てもたくましく、あかるい能登を描くことこそ、日本の映画界で誰よりも能登を熟知した私たちの役目ではないだろうか。
 確かに地震と対峙するとなると脚本の練り直しを強いられる。撮影時期も延ばさなければならないだろう。そうなればこの企画は二度目の延期。二度の傷物企画となる。こんな企画に賛同してくれる俳優やスタッフはいるものだろうか。心配はつきない。
 しかし震災を無視してはこれからの能登は描けない。
 私たちは失うものの大きさを覚悟したうえで二度目の脚本の練り直しを決めた。まもなくゴールデンウィークに入ろうとしている時期だった。
 今からつくり直すのだから夏の撮影には間に合わない。少しだけ時間を延ばして十月のクランクインをめざした。
 藤さんにその旨を告げると、さすがにNGがでた。秋から春までは他の仕事の予定がいっぱいだという。
 藤さんを失うのは惜しい。しかしこればかりは仕方がない。私たちが勝手に延期を決めたことだし、かといって藤さんのスケジュールを待って撮影を延ばすと震災復興の役に立てなくなる可能がある。復興のためには少しで早い方がいいのだ。
 亀田さんが貴重な意見をいった。
 脚本を書き換えるのなら女性を主人公にした物語にしたい。旅行客の大半は女性なのだ。女性に訴える物語にすると、能登を訪れる人は増えるはずだ。
 かくして脚本家の国井さんは再度新しい物語と格闘することになった。それもいままでとはまったく違う物語を。
 発注に際しては、少しでも物語を具体化して、国井さんの負担を軽くするべきだというプロデューサー陣の意見で、溝上、亀田、白羽による脚本合宿が行われた。私も私なりに考えてメールでシノプシスを送った。
 能登半島地震復興支援映画、『能登の花ヨメ』の脚本作業がはじまった。撮影の実に半年前のことだった。

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4-3 脚本作業と同時進行して。


 脚本作業は急ピッチで進められた。
 またまた前回と同じ行程を一からやり直す。シノプシスからはじまり、ハコ書きに移り印刷へという作業だ。
 今回はいままでとはまるで違う話となっている。
 主人公が男性から女性へ。テーマは料理から能登の人情へ。料理のフルコースから冠婚葬祭を描くことへ。
 国井さんも必死なら、白羽監督、溝上さん、亀田さんも必死だった。
 それでなくても売れっ子の国井さんは徹夜の日々がつづいたという。あまりの忙しさと時間のなさに、ツメの甘い部分もあったそうだが、監督やプロデューサーは容赦なく指摘をして、指摘するだけでなく、不備な部分はみんなでアイデアをだし合って補った。
 今回は前回のような悠長に構えている時間はない。全員で協力してカタチにしていく他はないのだ。
 脚本作業は東京のメンバーにまかせて、私はその間に金沢へ何度も向かい、支援者への説明と協賛企業とのツメの協議していた。
 地震が起きたことで、石川県の人々の私たちを見る目が変わっていた。
 地震は能登の家を壊し、土地を崩しただけではない。観光客の足を止めてしまったのだ。風評被害は確実に広がっていてホテルや民宿ではキャンセルが相次いでいた。
 観光業界の痛手は深刻で、地理的復興の次に風評被害の対策が急務の課題となっていた。
 私たちがこれまでの脚本を捨てて、震災復興を支援する映画へ変更することを報告すると、どなたも喜んでくれた。というより感謝をされた。
 これまでの脚本づくりの苦労をご存知の石川県庁の堀岡さんや穴水町役場の岡崎さんなどは、そこまでしてくれるのかと感に堪えない表情で頭を下げてくださった。
 ここにきてやっと私たちは、石川県や能登の人々に認められてきたのだと思う。それまでは東京や大阪の人間が何かをしているという程度の認識だったはずだ。頼みもしないのに勝手に映画を撮るという連中。口ではいいことをいっているけれど、どこまで信じていいかわからい連中。
 しかしその連中ができあがっている脚本を捨てて、スケジュールも再調整して、映画で震災復興の手伝いをしようとしている。石川県の人間が頼んだわけでもないのに自主的に映画で震災復興の取り組みを行おうとしている。
 オセロの駒が黒から白へ変わっていく手応えを感じていた。
 その変化には足繁く通ったこれまでの地道な活動が物をいったとも思う。地震後に突然やってきて、震災復興の映画を撮りますというような、手前勝手な輩の便乗企画とは違うのだ。
「この事実を記者発表してくれんか?」
 五月の終わり頃に堀岡さんからそんな提案があった。
 それは映画の宣伝になるだけでない。震災で被害を受けている人にも希望の光となるニュースになるはずだ。だからできるだけ早い時期に記者発表をしてほしいと堀岡さんいった。
 会議の席に同席していた藤岡さんも
「それは能登の人のためにも、映画のためにもなる」
 と後押しをした。
 記者発表は妙案だと私も思った。しかしリリースするには足りないものがあった。
 キャストが決まっていないのだ。
 キャストが決まらない映画の記者発表は説得力に欠ける。キャストを決めるには脚本の完成を待たなければならず、そうすると記者発表は一ヵ月も、二ヵ月も先になるかもしれない。
 ましてやキャストも決まっていない企画の記者発表を溝上さんがオーケーするだろうか?近代映画協会でもこんな不確定な段階で記者発表なんてしたことがないはずだ。
 私はその日、午後の飛行機で金沢から東京へ飛んだ。あるアイデアを思いついたのだ。

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4-4 記者会見をする。


 赤坂の近代映画協会には夕方に着いた。
 私は溝上さんに会うなり、石川県サイドの対応がまるで違うこと、映画に対する期待が高まっていることを報告した。そのうえで記者発表を開くことはできないだろうかと持ちだした。
 溝上さんもキャストの問題が障害だといった。
 キャストに関しては、脚本が完成していない以上決めることはできない。とはいえこの映画に興味を持ってくれている俳優さんはいる。映画で震災復興を試みるという行動に賛同の手をあげてくれる俳優さんもきっといるはずだ。
 キャストは出演と発表するのではなく、映画による震災復興という行動に賛同する俳優として発表してはどうか。正式な出演は脚本を読んでからになるけれど、映画による震災復興への試みには少しでも協力したいという熱い気持ちを持っている俳優という紹介ならどうだろう、というのが私のアイデアだった。
 たとえば田中美里さん。
 実は前回の『海辺のテーブル』のときからヒロイン役に田中さんという声があがっていた。脚本も事務所へ持ち込んでいた。石川県は田中さんの出身地である。田中さんなら地元のためにも協力してもらえるのではないだろうか?
 たとえば松尾貴史さん。
 白羽監督との交友も深く、ふたりとも神戸出身。震災復興には人一倍思い入れのある俳優だ。
 そんなことをいうと、溝上さんは
「わかりました。それなら本田博太郎さんも賛同してくださると思います。明日、さっそく各事務所へ相談に行ってきます。そのうえで記者発表を開けるかどうか判断しましょう」
 三日ほどして溝上さんから連絡がった。
「みなさんが賛同してくれました」
 これで記者発表が開ける。
 堀岡さんに連絡するとすぐさま会場をセッティングしてくださった。
 かくして六月二十一日、午後一時から石川県庁の大会議室で、映画『能登の花ヨメ』は記者発表を行い、この映画は能登半島地震震災復興支援映画であることを宣言したのだ。
 出席者は、白羽監督、溝上さん、亀田さん、藤岡さん、そして私。さらに能登広域観光協会の理事長であり、『能登の花ヨメ』の石川県における制作支援委員会の事務局長でもある向田さんも七尾市から駆けつけ出席してくださった。
 記者発表では白羽監督が映画による震災復興について熱く語った。溝上さんがこれまでの経過、二年の変遷を語り、亀田さんが賛同してくれる俳優やスタッフとこれからのスケジュールを紹介した。
 発言のたびに記者のカメラのフラッシュが光り、六台のテレビカメラが発言者の表情を追った。
 その模様は、テレビなら夕方のすべての情報番組で、新聞は翌日の朝刊で大きく報道された。どのテレビも新聞も私たちの取り組みを評価してくれ、期待してくれる内容だった。
 テレビもそうだし、翌日の新聞もそうだけれど、この記者発表の模様はかなり大きく取りあげられたので、『能登の花ヨメ』の認知度は一気に高まった。

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4-5 協賛企業が集まりはじめる。


 この映画の資金集めは苦労していることは何度も書いた。
 次の章で詳しく説明するけれど、苦労している理由のひとつにプロデューサー陣のある試みがあったのだ。
 私たちはこの映画を石川県の財産にしたかった。石川県発の、石川県の映画にしたかったのだ。
 そのためには石川県内の企業が中心となって製作資金をださなければ意味がない。東京や大阪の企業が出資すれば、中央がつくった、石川県を舞台にした映画にしかならないからだ。
 真の意味での石川県発の映画をつくる。
 その考えは前売りチケット保証の提案のときにめばえ、年末の頃にはプロデューサー陣は本気でそうしようと考えるようになった。出資や協賛の説明に伺う企業も、その手のことに慣れている東京や大阪のビデオ会社や放送局は避け、石川県内の企業、もしくは石川県と関わりのある企業に絞っていた。
 その際の心強い羅針盤になってくれたのが藤岡さんと稲垣さんだ。
 この二人の交友力には舌を巻くことが何度もあった。石川県内のたいがいの方をご存知なのだ。この二人に堀岡さんを足すと、ほとんどの企業へ説明に伺う道が開かれた。
 特に熱心なのは藤岡さんだった。
 出会った頃はどこまで信じて良いのかわからない、陽気でポジティブなニューヨーカーというイメージだったけれど、実は一度、自分でやると決めたら最後までやり遂げる信念と努力の人だった。
 外様の私たちに代わって協賛企業への根まわしをすべて行ってくれたのは、藤岡さんだといっても過言ではない。
 幸いなことに藤岡さんは会長を務める会社の仕事で、例年になく金沢にいることが多くなっていた。
 私たちが東京や大阪で作業をしている間に、藤岡さんは仕事の関係先のさまざまな企業へ映画協賛の打診をして、反応が良いと見ると私たちによるプレゼンテーションの席を設けてくれた。私たちは月に一度、一泊か二泊して、藤岡さんがセッティングしてくれた企業をまわって、映画の趣旨説明と協賛のお願いをするだけでよかったのだ。
 地道な活動と映画で震災復興を支援するというコンセプト。記者発表を機に、私たちが映画で何をしたいのかが広く伝わり、それまで検討中だった企業が相次いで協力へと動いてくださった。
 石川県にある五つの信用金庫組合、北國銀行、金沢医科大学、NTTドコモ北陸、北陸放送などが協賛へ名乗りをあげてくださった。
 それだけではない。北國新聞も全面的な協力を約束してくださった。
 また、うれしい報告が相次いだ。
 テレビや新聞の報道を見てくださった方々から
「私たちも何かお手伝いできることはありませんか?」
「大きな金額は無理ですが、少しなら金銭面でも応援したい」
 などの声が多数あがったのだ。
 石川県民のその真摯な声は、金沢と能登で一口一万円の募金というカタチにまとまって応援活動が繰り広げられるようになった。募金には個人ばかりではなく、さまざまな企業も参加してくださった。募金は製作費の大きな柱になることになった。
 協賛企業も石川県民の応援も、すべては映画による震災復興という試みに対する期待の表れなのだ。
 白羽監督もプロデューサー陣も、その事実を真摯に受けとめ、より良い映画にするために制作作業に熱が入っていったのはいうまでもない。

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4-6 主演女優が決定。


 脚本の印刷アップを待ってからキャスティングにかかっていたのでは十月の撮影に間に合わない。
 溝上さんと亀田さんはハコ書段階の、とはいえかなり完成に近づいた段階のハコ書原稿をお目当ての俳優さんの事務所へ届けることにした。
 前回の『海辺のテーブル』は遠く離れた父と娘の物語だった。今度の『能登の花ヨメ』は百八十度変わって、都会から来た嫁と姑の物語。
 東京で挙式の予定だった若い女性が、夫となる人の母親が交通事故でけがをしたため、海外出張の“夫”に代わって“母”の世話をするために能登へ行く。その能登で、地震に遭ってもめげないで生きる、たくましく、あかるい人々を知る。ぶっきらぼうだけれども、人を慈しみ、自然に感謝して生きる豊かな心を持っていることに気づき、女性の人生観が変わっていく。
 主人公の嫁役には田中美里さんを考えていた。
 ハコ書きを届けた段階で田中美里さんの事務所からは了承の返事が届いた。
「私が演じることで石川県のお役にたてるのならこんなうれしいことはない。ぜひとも参加させてください」
 とても前向きなメッセージも寄せられた。
 問題は“母”を演じる俳優さんだ。
 能登という地で子供を育てあげ、いまでも一人でたくましく生きている女性。やさしいだけではいけない。たくましさときびしさの奥にやさしさをたたえた女性が理想だ。
 溝上さんと亀田さんは泉ピン子さんの事務所へハコ書きを持ち込んだ。
 私はその話を聞いたとき、正直にいって無理だと思った。
 国井さんのおかげだけれど脚本はとてもいいあがりになっていた。しかしテレビであれだけ人気の泉さんだ。スケジュールの調整がつくわけがない。
 ところが返事は
「前向きに検討したい。詳しい話しを聞きたい」
 といううれしいものだった。
 本来なら泉さんは十月の一ヵ月間をオフにするつもりだったそうだ。
 たまたまスケジュールが空いていた。そこへ心動かされる脚本が届いた。また、泉さんは本格的に映画と取り組みたいと思っていた時期でもあった。
 そんな偶然が重なって泉さんはとても前向きになってくれた。
 最後に泉さんの気持ちを押したのは、やはり映画で震災復興に取り組むという姿勢だった。
 泉さんは小さい頃から芸人として苦労されて今日の地位を築いた方。人の苦労には人一倍敏感なんだと思う。困っている人がいたら、自分にできることは何かを常に考える人なんだろう。それも泉さん流のやり方で。
 たとえば伸び悩んでいる若い俳優がいたとする。普通なら相談に乗ったり、やさしい言葉で励ますところだけど、泉さんはあえて厳しい言葉を投げてステップアップするきっかけをつかませようとする。それが泉さん流のやさしさだ。
 新潟県中越沖地震のときもそうだし、能登半島地震のときも泉さんは自分のやり方で被災者を応援していた。
 途中で役職を放り投げてしまったどこかの国の総理大臣とは違って、自分を全面に押しだすことを目的としたパフォーマンスなんて絶対にしない。
 泉さんの名前で義援金を送るとニュースになってしまう。
 泉さんは電話をかけるだけでその電話代の一部が義援金になる番号があると知ると、撮影が終わって家に戻ると毎晩のように電話をかけていたそうだ。
 それも一回や二回ではない。日に何十回も。それを何日も。
 そんな泉さんだから、自分が出演した映画が震災復興の役に立つのであれば、万難を排してでも参加したいと力強くおっしゃってくれた。

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4-7 田中さん、泉さんの出演がさらに応援の輪を広げる。


 田中さんの出演が決まったことを石川県の方々に知らせると、誰もが
「ほんとけ!」
 と驚きの声をあげた。
 地元出身の女優、田中美里さんが出演するだけでもニュースなのに、そこに泉さんの出演も報じられると、
「すごい!」
 という声がわきあがり、『能登の花ヨメ』への期待はいがやうえにも高まっていった。
 特に年配の女性の方々が本当にうれしそうな顔をして喜んいるのが印象的で、改めて田中さんや泉さんの人気の凄さを思い知った。
「どこでロケするんや?」
 いく先々で、地元の有力者の方にそう尋ねられるようになった。
「いろいろ候補はあがっているんですが、決定は主要スタッフによる最終のロケハンを終えてからになるんです」
 嘘ではなかった。白羽監督をはじめ、助監督、カメラマン、美術、照明などの技師さんがそれぞれの目で場所を確認してからでないとロケ地は決まらない。
「うちの町でやるやろな」
 とあたりをみまわして小声でそう確認する人や
「ぜひともうちの町でも撮ってほしいもんや」
 と豪快に笑いながらおっしゃる方がいた。
 できるなら自分の町で映画を撮ってほしい、それが能登の人々の本音のようだった。
 穴水町の岡崎さんは、相変わらず絵になる場所を監督に紹介していたし、キリコ祭りの撮影場所に関しては、珠洲市長直々の熱いラブコールがあった。撮影がはじまったら炊きだしをしなければと、いまから頭を悩ませる輪島市の方々もいた。
 北陸放送から密着取材の依頼があり、ゆくゆくは地元の人々と映画スタッフとの交流を中心とした特別番組に仕上げたいという話が持ちあがった。
 北國新聞からも主要な撮影時には必ず取材にいくので撮影スケジュールは決まり次第送ってほしいとの連絡があった。
 半年前には考えられない歓迎ぶりだった。
 東京や大阪でそんな話をすると
「映画が撮れるのも地震のおかげですな。地震様々ですな」
 なんて憎まれ口を叩く人もいた。
 この人たちは能登の現状を知らないからそんな無慈悲なことがいえるのだ。
 能登の人がこれだけ真剣になってくれているのは、それだけ地震の被害が深刻で、藁にもすがる気持ちで私たちの映画に期待してくれているからなのだ。
 確かにここまでの道のりは長かった。
 何度も何度も頓挫しかかったし、想いだけが空まわりする日々がつづいた。
 しかし扉は開かれたのだ。
 金銭的にはまだクリアーしなければならない課題は残されていたが、『能登の花ヨメ』という映画は、それまで横たわっていた巨体をゆっくりと起こして、自分の足で歩みだそうとしているのだ。

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4-8 制作スタッフも決まる。


 東京では俳優と制作スタッフが続々と決まっていた。
 地元のリーダー役に松尾貴史さん。
 NHKの連続ドラマの撮影と重なって厳しいスケジューリングになったけれど、松尾さんの出演は白羽監督と私の念願だったので、なんとか無理をいって時間を調整してもらった。
 近所のおばあちゃん役には内海桂子師匠。
 毎年正月になるとテレビの演芸番組を楽しむのが私の家の昔からの習慣だった。東西寄席の東のトリはいつも桂子・好江の漫才だった。あの桂子師匠がお元気で、いっしょに仕事ができる!お笑い好きの関西人としては、こんなアドレナリンのでる報告はなかった。
 地元の青年役には甲本雅裕さん。
『村の写真集』という映画を観て以来、私は甲本さんのファンだったので出演決定の話を聞いたときには本当にうれしかった。
 震災で夫を亡くして、女手ひとつで幼い子供を育てている海女さん役には松永京子さん。
『パッチキ』のラスト、アンソンの子供を出産するシーンに涙した人は多いと思う。私もあの映画の松永さんの印象が強烈で、いっしょに現場で会えることをとても楽しみにしていた。
 その他にも、水町レイコさん、平山広行さん、池内万作さんなど、続々とキャストが決まっていった。
 同時に制作スタッフも固められていった。時間はかかったけれど、日本映画界を代表するスタッフが揃ったといっても過言ではない。
 それは溝上さん、亀田さんのこだわりによるもので、ある意味、ここまでがんばって企画を進めてきた白羽監督へのプレゼントでもあった。
 白羽監督は十数年振りにメガホンをとるのだ。ブランクを少しでも補えるスタッフを揃えるのがプロデューサーからのお礼という訳だ。
 照明は小野晃さん。
 装飾は山田好男さん。
 録音は武市英生さん。
 一流の技師が揃った。
 そしてカメラマンは山本英夫さん。
 ベネチア国際映画祭金獅子賞を受賞した北野武監督の『HANA–BI』の他、『パッチギ』や『フラガール』や『有頂天ホテル』など数々の名作を手がけ、いまや日本で一番忙しいカメラマンといわれる。
 実は、山本さんは亀田プロデューサーの旦那さん。だからといって私たちも奥さんの亀田さんも、山本さんがカメラをまわしてくれるなんて思ってもいなかった。
 たまたま自宅のテーブルにあった『能登の花ヨメ』の脚本を山本さんが読んで、その感想を亀田さんが聞くと、
「オレ、撮ってもいいよ」
 山本さんがポツリといったという。
 亀田さんもびっくりしたけれど、その話を聞いた白羽監督も溝上さんも私もびっくりした。
 夫婦揃って同じ映画に参加することは初めてのことなので、山本さんの参加は、制作スタッフにとってもうれしいことだし、亀田さんにとっても『能登の花ヨメ』は記念すべき作品になったようだ。

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4-9 そしてクランクイン。


 スタッフが決まると九月に最終のロケハンが行われ、メインの舞台となる家が決まった。
 穴水町のある築百二十年を超える古い家だった。
 広い家だけれど手入れが行き届いているので、今でも新鮮な空気が通りにぬけている。太い柱は時をたっぷりと吸い、ねっとりとした飴色になっていて、広い家の隅々には未だに闇がこぼれている。都会ではとてもおめにかかれない家には、私たちがいくらお金を積もうが、いまからではとても再現できないような、時の集積による圧倒的な美しさが、玄関にも土間にも、柱にもガラスにも、掛けられている遺影にも時計にも秘められていた。
 家の前は穴水湾の穏やかな海で、その手前には小さな畑もある。
 この家に限らず、桂子師匠演じるフジばあちゃんの家とか、きのこを取りにいく山とか、映画のスタッフは地元の人でも知らないような場所を本当によく探してくるものだと、感心を超えて感動してしまう。
 一方で、撮影が行われる穴水町や輪島市や珠洲市では、私たちの受け入れ体勢づくりが密かに進行していた。
 ロケがはじまるとエキストラの手配から、俳優の送迎車の手配、さらには昼食や夕食時の炊きだしの手配など、撮影隊が恐縮してしまうほどの手厚い支援を受けることとなった。
 特に炊きだしである。
 食事の時間になると、近隣のお母さん方がさまざまなお汁をつくってくれた。
 鰺をつみれ入りの味噌汁、もずく入りの粕汁、キノコ汁、鳥とゴボウのすまし、メッタ汁などなど。どれもこの地ならではのおいしさで、俳優もスタッフも何杯もお代わりをしたのはいうまでもない。
 穴水町の家で撮影のときは、近所のお母さん方がお汁以外にも、ときには牡蠣フライ、ときにはカレー、ときには牛丼、ときには炊き込みご飯など、まるで都会へ出て行った子供たちが帰ってきたときのようなもてなしをしてくださった。
 この静かな集落にこんなに大勢の人間が来ることもなければ、映画の撮影もはじめてのことだったので、当初はとても心配されていたようだが、俳優もスタッフもみんなとてもいい人ばかりなので、お母さん方とも数日で仲良くなると、あとは家族同然の扱いをしてくださった。
「一日でも長くロケをせんね」
 とか
「ほんとは帰らんといてほしんや」
 なんて泣かせるようなことをいって別れを惜しんでくださった。
 歓迎といえば珠洲市の小泊で行われたキリコ祭りの撮影のときのことをいわなければならない。
 キリコ祭りの撮影が行われるというので、集落の人はもちろん、近隣の町や金沢へでている方々もわざわざ戻ってきて祭りを再現してくださった。
 その数、二百人強。
 毎年のキリコ祭りのときもこれだけの人数が集まることはないという。
 聞くところによるとこの集落でキリコを担ぐのは二十年振りになるらしい。
 普段の祭りのときは、これだけの人数が集まらない。だから担ぐことができず、台車に乗せて引くのが精一杯だという。
 しかし今日は映画のロケがあることを聞きつけてたくさんの人が集まってくれたおかげで、台車に乗せて引くだけだったキリコを二十年振りに担ぐことができたというのだ。
 二十年振りに担ぐにあたって 朝から何度も練習を繰り返していたという話も聞いた。
 酒をあおり、声を絞って、 嬉々とした表情でキリコを担ぐ人の姿をみていると、 人はエキストラを超え、シーンは芝居を超えて本当の祭りになっていた。
 映画のストーリーと同様に、それはまさに復活のキリコの光景で、道ばたでは目頭を押さえている老人が何人もいらっしゃった。
「今年は二回も祭りができる」
 と喜んで駆けまわる子供の声がいまも耳を離れない。
 これといった大きなトラブルもなく、逆にうれしい出来事の方が多かった撮影は、それまでの企画段階のときが嘘のように快調に進んでいった。

第4章終了・・・。


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