第3章 明けない夜はない。

3-1 終焉の影に怯えながら。それでも動きまわる。


 七月、八月、九月は、私たちにとってどん底の時期だったかもしれない。
 何度も金沢や輪島へ足をはこぶけれど、資金面での具体的な成果は皆無だった。
「まずは映画のシンポジウムを開催して理解を深めるところからはじめよう」
「舞台となるレストランを撮影終了後には本当の店にして観光ポイントにしよう」
「映画学校を開催して、石川県を映像文化の発信地にしよう」
 白羽監督がいろいろな企画を考えて事務所へやってくる。無謀なところや無駄な部分は切り、可能性のある芽をひろって私が企画書にまとめる。できあがった企画書をもって、二人で石川県の協力者へ説明にいく。しかし企画はいいけれど開催資金はどこからも集まらず、企画はいつしかお蔵入りになる。
 資金集めということに限ると地域格差というものをまざまざと感じていた。
 広告の世界の話で恐縮だが、ひとつの広告にかける金額が指一本といえば、東京の場合は一億か一千万を指す。大阪の場合は一桁落ちて、一千万か百万になる。ところが北陸地方へくると、さらに一桁落ちて、百万か十万になる。
 某企業へ映画イベントの件でお願いへ伺ったところ、協賛していただけることになった。担当者は一本くらいとおっしゃったので百万と踏んでいたら、金額は八万円だった。
 そのことを声高に批判しても仕方がない。
東京都民の数は約一千二百万人、大阪府民の数は約八百八十二万人、石川県の県民数は約百十七万人なのだ。そもそも経済規模が違う。ということは同じ一千万の資金を集めるにも、石川県では東京の数十倍の労力が必要ということになる。
 また、その時期の石川県ではさまざまな映画の制作や企画が進んでいた。
松竹映画の『釣りバカ日誌』は前記した通りだが、八月にも羽咋市で『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』の撮影が行われ、映画の企画自体、そうめずらしい話題ではなかった。そのなかで外様の私たちが石川県で、能登で映画を撮る意味や意義を明確化することは、かなり難しい課題だった。
 東京の方での動きも鈍かった。出資者が見つかったという朗報は届かなかった。
 脚本作業の方も同じで、一度、辻調理師専門学校の先生を招いて、料理に関する勉強会を開いたけれど、それを反映した大幅な改訂稿の作業にはなかなか着手されなかった。
 思うに、その頃、溝上さんは思案していたのではないだろうか。
 必ず実現するんだと熱くなって石川県への行脚を繰り返す白羽監督や私と違って、溝上さんは一歩下がって状況を判断できる位置にいる。
 また、F氏からのお金を企画開発費に使うとはいっても、F氏は製作にクレジットされない人物で、いわば善意でお金を融通してくれている人だ。つまりこのお金は必ず返さなければならないお金で、このお金を使って脚本の改訂作業に移った場合、この企画がつぶれたらその不足分は監督とプロデューサーが負担しなければならないことになる。
 目の前に一千万円あるといっても、このお金を使うには企画成立の見通しがある程度たっていなければならないのだ。
 映画は賭けではなくビジネス、というのが溝上さんの哲学なのだ。
 だから脚本家の国井さんにも明確な締め切りを設けていなかった。頭のなかで構想を練っておいてねという曖昧な注文だったようだ。
 金沢や能登の協力者もそうだけれど、溝上さんも亀田さんも、五月の出来事以来、企画が流れる覚悟をどこかでしていたのではないかと思う。
 白羽監督と私だけが、ひたひたと背後から忍び寄ってくる終焉の予感に気づきながらも、いま動かなければ本当に終わってしまうと自身で自身を鼓舞して、わずかな可能性に賭けて動きまわっていた。

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3-2 はじめての石川県全体会議。


 夜明け前は一番暗いとよくいわれるが、明けない夜もない。
 私たちにとって七月、八月、九月はまさに夜明け前で、目の前はまったく見えない暗闇だった。しかし闇の先がうっすらと明るくなり、その先から光りが洩れるように、ある会議をきっかけにして企画は前進をすることになる。
 これまで石川県や能登の協力者とは個別に会っていた。それぞれに考えがあり、それぞれに意見がある。
 私はふと思ったのだ。三人寄れば文殊のなんとかではないけれど、一堂に集まってこの先どうしていくかを話し合ってもいいのではないかと。
 九月の終わりになると藤岡さんがニューヨークから金沢へ戻ってくる。
 藤岡さんとはニューヨークからメールで、ときには電話で連絡をとりあっていたし、藤岡さんの指示で、金沢や東京の企業へ説明に伺っていた。藤岡さんに有識者会議のことを相談すると
「やろう、それはいい」
 とおっしゃってくださった。石川県庁の堀岡さんにも相談すると
「わかった。県庁の会議室を抑えておくわ」
 と賛同してくださった。
 かくして十月三日の午後三時、石川県庁の会議室で「海とキリコとアオイ」の有識者会議が開かれた。
 制作サイドからは白羽監督、溝上プロデューサー。そして私の3人。
 石川県サイドの集まったメンバーをみて驚いた。藤岡さん、堀岡さんの他に、金沢フィルムコミッショナーの茂野さん、そして北國新聞社の稲垣さんも駆けつけてくださったではないか。
 今日の結果次第では映画の企画そのもののがなくなるかもしれない。気合いの入った私たちは、いつもとちがって全員スーツ姿で出席。七五三のようですなぁと藤岡さんに笑われた。

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3-3 賽は投げられた。


 企画した私が会議の進行を担当するが、緊張のあまりうまくしゃべれない。
 酒の席ではにぎやかで饒舌な私だが、関西人なのに緊張しいのあがり症なのだ。その場の空気に馴染むまで時間がかかる。馴染んでしまえばこっちのものなのだが。
 石川県庁の堀岡さんが助け船をだしてくださる。集まっていただいたお礼から今後のことについて堀岡さんを中心として会議が進む。
 その席上、堀岡さんから驚く提案があった。
 石川県としても、私個人としても、能登の活性化のためにこの映画を実現させたい。しかし県から金をだすことはなかなかむずかしい。そこで考えたのだが、前売りチケットを保証するという協力はどうだろう。幸い『釣りバカ日誌』のときにそれぞれの市町村で前売りチケットを購入した実績がある。県をあげて支援した『釣りバカ日誌』と『海とキリコとアオイ』とでは、規模も状況も違うので同じ枚数を確約することはできないけれど、能登を中心に三万枚ほどなら見当がつく。いかがなものだろう?
 堀岡さんはこの会議へ参加するにあたり、私たちの知らないところで真剣に考えてくださっていたのだ。
 私は白羽監督と溝上さんの反応をみた。
 溝上さんは大きくうなずいた。それを合図に白羽監督が機関銃のごとく、堀岡さんの提案がどれほど大きな、意義のあるものなのかを語った。溝上さんも静かな口調でどれほどありがたい提案なのかを語った。
 能登地方だけで前売りチケットが三万枚も確約していだけるということは、一枚が千三百円として三千九百万円の売り上げ、一千円で売ったとしても三千万円の売り上げが確約されたことになる。
 チケット購入の契約書さえかわすことができたら、それを担保に金融機関から制作費を借りることだって可能だ。
 F氏の一千万円に、前売りチケット保証による三千万円。これに文化庁の助成金の二千万円、奥能登開発基金からの一千万を合計すると七千万円が集まる計算になる。
 上映前から三千万以上の売り上げが保証されているとなると配給会社との交渉も有利に進めることができるだろう。
 思ってもいなかった提案に会議は熱を帯びはじめ、最後は軽い興奮状態のなかで終わった。誰もが笑顔だった。誰もが明日への光を見た心持ちになっていた。
 会議終了後、白羽監督、溝上さん、藤岡さん、そして私の四人で香林坊まで戻り、私たちの贔屓の居酒屋「いたる」で祝杯をあげた。
 白羽監督は高揚して顔も言葉もはちきれそうになっている。
 溝上さんが詳しく説明したおかげで、藤岡さんも堀岡さんの提案がどれだけ価値あるものなのかがわかって、それならば私だって他に手だてがあるとアイデアを次々に披露してくれた。それまで何ヵ月も停滞していた企画がやっと重い腰をあげて動きだそうとする手応えを誰もが感じた夜だった。
 藤岡さんと別れてから、私たちはさらにもう一件、白羽監督お気に入りのバー、「広坂ハイボール」へ行った。
 その店へ向かう途中で、溝上さんは東京にいる亀田さんに電話で事の次第を報告している。
「カメちゃん、動くよ」
 溝上さんは白羽監督や私の顔を見て笑った。
 店に入ると溝上さんは
「乾杯しましょう」
 といってシャンパンのボトルを抜いてくれた。
「西林さん、そろそろ腹をくくりましょうか」
 溝上さんはそういって、F氏からの資金を使って本格的に脚本の練り直しにかかろうと提案された。この提案は東京サイドが本気になったことを示す重大な一言だった。
「ダメになったらみんなで弁償しましょう」
「いくら振り込みましょうか?」
「半分ほどいただけますか」
「わかりました」
「じゃ、成功に乾杯!」
 そういって私たちはその夜、何度目かの乾杯をした。

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3-4 密かな裏切り。


 金沢の「広坂ハイボール」で、私が溝上さんにいくら振り込みましょうかと聞いたのには理由があった。
 実は、F氏から借りていたお金を、私は自分の事務所のために使い込んでいたのだ。
 もちろん横領する気はなかった。すぐには必要となりそうにないお金なので、その期間だけ事務所の運転資金に借りて、必要となれば返そうと思っていた。
 実をいえばそれほど事務所の経営は貧窮していたのだ。
 決算が終わっても事務所の売り上げはなかなか上向きにならなかった。忙しくなりそうになるのだけれど、すぐに波は引いてしまうのだ。
 私が頻繁に金沢や能登や東京へでかけることができたのも、時間をやりくりした結果ではなく、時間だけはたっぷりあったからだ。事務所にはスタッフがいる。スタッフに仕事を任せると、私には自由になる時間が残ったのだ。
 これがいいことなの悪いことなのかわからなかった。映画にとってはいいことだろう。しかし本業にとっては決していいことではない。明日の資金繰りに困り、F氏から預かったお金に手をだす始末なのだから。
 映画の関係者の間でも、私のことを心配してくれる声はあった。
 脚本家の国井さんは、会うたびに本業は大丈夫なのと心配してくれていた。
 石川県庁の堀岡さんは人生の甘いも酸いも噛み分けた人生の達人だからすべてをお見通しだったようだ。
 後に記述するけれど、藤岡さんも映画にどっぷりはまっていくことになる。
「藤岡さんは分別をもって映画のことをしておる。余裕があるからしよる感じや。けどあんたは違う。せっぱつまっとる。心配や」
 夜の食事の席で堀岡さんがぼそりと私にいった。適当に誤魔化したけれど、見ている人は見ているんだなと、酔いが急激に醒めていったのを覚えている。
 本当はF氏から預かった時点ですぐに『海とキリコとアオイ』の口座へ振り込むつもりだった。しかしさきほども書いたように、溝上さんは状況を見定めているときだった。それほどお金を必要とはしていなかった。
 昨年は銀行からの借り入れでなんとか事務所を維持していくことはできた。決算を赤字にした以上、今期の融資は期待できない。口座にはF氏の一千万円がある。だからつい。いけないとは思いつつ、つい。そのついついが重なって、私は預かっていたお金の半分を事務所の運転資金につぎ込んでいた。
 溝上さんから五百万円が必要といわれたときは、正直ホッとした。それ以上の金額なら融通することができずに横領になってしまうからだ。
 私は溝上さんに事情を説明した。そのうえで残りの五百万円はいつ必要になるのかを聞いた。
 溝上さんは困った顔をしながらも察してくれた。そして残りは撮影の間近までに用意してくれたらいいと教えてくれた。
 撮影は七月を予定していた。それならなんとかなる。
 私の事務所の決算は五月だった。次の決算をなんとしてでも黒字にもっていければ銀行からの融資が受けられる。その一部で返却する。私はそう算段した。
 綱渡りであるけれどやるしかない。映画も事務所もつぶすわけにはいかないのだ。私も後戻りすることはできないのだ。

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3-5 東京サイドもエンジン全開。


 東京では国井さんが招かれて、さっそく脚本の練り直しがはじめられた。
 キリコ祭りをクライマックスにもってくること以外は大幅に書き換えることになった。
 辻調理師専門学校の先生方による講習会の収穫もあって、もっと料理にスポットを当てた映画にすることに決まった。能登は食材の宝庫なのだ。みすみすその事実を見逃す手はない。
 作業としては、また一からである。
 国井さんがシノプシスをあげて、それを検討して、修正して、あがったシノプシスを再び検討してハコ書きへ進化させていく。ハコ書きをさらに検討して、修正して。そんな作業を何度も繰り返す。時間はかかる。待つのも映画の大切な仕事なのだ。
 シノプシスを何度かあげた段階でもう一度シナリオハンティングへでかることになった。白羽監督や溝上さんや私は何度も訪れているけれど、国井さんは去年に一度、あわただしくまわっただけだ。
「ここはひとつ、能登・金沢の空気を吸って、あらためて脚本にリアルな息吹を吹き込んで頂きたい」
 この一年で急に売れっ子になった国井さんを白羽監督と溝上さんが口説いて、なんとか時間をつくってもらった。
 十月二十五日から二泊三日の予定でシナリオハンティングを決行した。
 参加者は国井さん、白羽監督、そして私。
 土地や風景を巡るのも大事だが、土地に生きる「ひと」、その人がつくりだす「味」と出会うこともより重要。金沢のお店で働く方々や、能登の農場で働く方々に取材することをテーマにした。
 初日は金沢市内。近江市場や茶屋街を取材した。
 翌日は穴水町役場の岡崎さんの案内で、能登でとびきりおいしい米をつくっている農家宅を取材した。
 今回のシナリオハンティングの最重要課題として「農業に従事している青年を探す」というのがあった。
 「川原農産」の川原さんは二十九歳の好青年。東京の大学で農業を学んだ後、地元の輪島市町野町へ戻ってきて親といっしょに米や野菜や果物をつくっている。
 農業への情熱と生産理論はハンパではなく、成果となる米や野菜や果物はどれもとびきりのおいしさだった。昼食にいただいたおにぎりや焼き栗は、これまで食べていたおにぎりは何だったのかと疑いたくなるほど絶品だった。
 焼き栗もおいしい。午後に連れて行ってもらった、山の上のリンゴ園のりんごもおいしい。しかしこのおいしさを手に入れるために、日々どれだけの苦労をしていることかと想像してしまうけれど、川原さんは首を振って楽しみなんですと笑う。苦労を苦労と思わず取り組むところからこの味が生まれるんだなと、みんな納得した。
 ちなみに映画の撮影中、川原さんはおにぎりと焼き栗を差し入れしてくれた。お米が大好きな泉ピン子さんは一口食べるなり
「おいしい!」
 とうなり、
「これは橋田先生やスタッフにとどけなくては」
 といって、お米と焼き栗を大量に注文した。それほどおいしいお米と栗なのだ。
 ちなみに川原さんは経営にも意欲的で、首都圏で対面販売をする「青空市場」やネット通販にも積極的に取り組んでいるのだ。
 川原農産を失礼した後は、映画のメイン舞台にどうかと考えている海辺の洋館を視察した。
 白い洋館は能登島を見渡せる海辺という絶好のロケーションにあった。
 内灘の海はとても穏やかで、光を受けて輝いている。建物の前にはパーティーが十分に開ける広さの庭があって、端の方には野菜やハーブが育っている。海辺のレストランとしては理想的だった。
「思い通りの所ね」
 まばゆい海に目を細めながら国井さんは満足そうに呟き、風景や建物をデジタルカメラで撮影した。
 この場所を紹介した岡崎さんは小さくガッツポーズをした。岡崎さんはメインロケ地が穴水のどこかになることが念願なのだ。

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3-6 石川県で支援組織が生まれる。


 今回のシナリオハンティングは、地元のテレビ局の報道陣が密着取材をして、数日後、夕方の報道番組で特集として放送してくれた。
 白羽監督は明るくユーモアがあって社交的な人間だから、金沢や能登でもたくさんの友人ができている。テレビ金沢のディレクター、久保さんもそのひとりで、久保さんの企画で取材が行われたのだ。
 ここにきて私たちを取り巻く環境は少しずつ好転しているのは確かだった。金銭的なことにまではまだ波及していなかったけれど、人の対応がとてもやわらかく、好意的になってきているのだ。
 それは新聞社の報道や県庁の堀岡さんの働きかけによるところが大きいと思う。しかしこれだけこまめに足を運んでいる私たちの熱意や誠意がここにきて伝わりはじめているのも確かだと思った。
 地方の人はなかなかよそ者に心を開かないという。しかし一度心を開くと、都会とは比べものにならないほど親密になってくれる。
 十一月の終わり頃になると、県庁の堀岡さんを中心に、輪島市、穴水町、珠洲市の代表の方が集まってくださって、『海とキリコとアオイ』の支援組織をつくろうという話が持ちあがった。
 これは私たちが企画したことではなく、地元からの発案だった。
 能登広域観光協会の理事長、向田さんも忙しいなか駆けつけてくださって、事務局の運営を引き受けてくださることになった。前売りチケットの購入なども、この支援委員会を中心にまとめていただくことが決まった。
 年が明けると、能登広域観光協会の理事会にも招かれて、メンバーの方々に企画の趣旨と協力をお願いして承認された。
 そんな模様はつねに新聞やテレビで報道されたので、私たちの映画の企画が進んでいるということはかなり認知されるようになっていた。
 二月には堀岡さんの案内で、輪島市、珠洲市、能登町、穴水町などの役所と商工会議所をまわり、市長さんや会頭さんにご挨拶してまわった。
 どなたも私たちの映画のことはご存じで、
「ぜひともロケ地はこの町で」
 行く先々でそんなうれしいお願いをされて恐縮した。

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3-7 『海辺のテーブル』にタイトル変更。


 十月のシナリオハンティングの成果もあって、シナリオはどんどん成長していった。物語は大きく変わり、エンディングは海を見渡せるレストランの庭で盛大なフレンチの饗宴を描くことになった。
 年が明けると、シナリオの進展にともないタイトルも見直された。
 決まったタイトルは、『海辺のテーブル』。より料理に特化した内容が伝わるタイトルだった。
 二月の終わりについに印刷台本が完成した。
 前回の『海とキリコとアオイ』の台本が完成したときも込みあげるものがあったけれど、今回のアップはさらに感慨深かった。
 うれしいことに、前回の私の役である西田はこの脚本でもなんとか生きていた。
 最後の大阪会議の紛糾から約十ヵ月。何度も何度も金沢や能登に足を運んで、それでできあがったのは一冊の脚本だけじゃないか。金は集まっていないじゃないか。本当に撮れるのか。また、同じことの二の舞になるんじゃないのか。
 そんな声も聞こえてきた。
 製作という面でいえば、確かに課題は山積みである。しかし『海とキリコとアオイ』の場合と『海辺のテーブル』の場合では状況はまるで違う。
 地元で支援委員会が発足した。
 石川県の企業で協賛の話もぼちぼちあがりはじめている。
 北國新聞社の稲垣さんは、あいかわらず私たちの歩みの遅さを心配しながらも、変わらぬバックアップをしてくださっている。謎の中東人、藤岡さんは、ニューヨークから金沢に戻ってくるたびに、私たちの映画のために奔走してくださっている。
 その他にも穴水町の岡崎さん、輪島市の大積さん、能登広域観光協会の向田さん、そして県庁の堀岡さんなど、たくさんの協力者が映画実現へむけて努力してくださっている。
 地元で期待されはじめている。地元が動いている。
 これが前回との一番の違いだ。向かい風がやみ、追い風が吹こうとしているのだ。
 私たちはこの追い風を受けて、キャスティングを固め、出資企業と協賛企業を募り、夏の撮影に入るのだ。いや、入らなければならないのだ。
 そんな決意を新たにしたとき、思ってもいなかった大事件が起こった。
 地震が能登半島を襲った。
 二〇〇七年三月二十五日のことだった。

 第3章終了・・・。

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