第2章 ゼロからの石川県行脚。

2-1 そして事件。撮影は来年に延期せよ。


「企画している段階が一番楽しんですよね」
 シネハンへ出発する前に溝上さんが洩らした言葉。企画が動きだすとさまざまなトラブルや課題が降りかかってくるからだ。
 映画の制作がはじめての私は、溝上さんの言葉の重さがわからなかった。
未来に対して誰もがそうであるように、辛いことより楽しいことに目が向きがちだし、今後ふりかかるであろうトラブルを予想する際は過小に見積もってしまう。
 しかし事件は突然に起こる。
 それは夢にも思っていなかった出来事だった。前途洋々の海は一転して嵐の海になるような。快適なお湯が突然沸き立つ熱湯になるような出来事だった。
 毎月、脚本やキャスティングの進み具合をA氏やB氏に報告する会議。四月の定例会議で事件は起こった。
 印刷脚本の第一稿もあがり、藤さんの出演も決まり、今回の会議は、これからの撮影に向けたスケジュールと制作費の確認の場だった。
 当初の予定では来月の五月に、A氏・B氏と近代映画協会で製作の契約が結ばれる。この会議ではその詰めを行い、夏の撮影に向けて必要となる制作費のキャッシュフローの確認が行われるはずだった。
 その席上で、A氏から撮影は来年に延期してほしいという提案があった。
 A氏とB氏は事前にすりあわせていたようだけれど、制作サイドにとっては突然の提案で、撮影へ向けて熱くなっている頭へ冷や水を浴びせられたような一言だった。
 思ってもいなかった展開に、白羽監督も溝上さんも、そして私もしばし言葉を失った。
 藤さんの出演が決まったことは喜ばしいことだが、決まるのがあまりにも遅すぎた。出資を募るにしても、一般の企業の人にとっては、どんな物語であるかより、誰がでるかの方が重要で、主演者がなかなか決まらなかったので出資活動は遅れをとっている。我々が出資契約をして当面は肩代わりをすればいいことだが、急いては事をし損じるという言葉もある。焦ってバタバタしてもロクな作品にならないはずだ。ならば思い切って撮影を一年延期すればどうだろう。もっと出資する企業は増えるはずだ。一億の予算が二億にも三億にもなるはずだ。
 それがA氏とB氏の意見だった。
「来年にすると、藤さんの出演もどうなるかわからなくなります」
「役者は他にもいろいろいるでしょう」
 独立系の、予算の少ない映画で大物俳優をキャスティングすることがどれだけ大変なことか、実情を知らない人ならではの意見だった。
 A氏やB氏の気持ちもわからないわけではない。
 脚本を練り込むあまり、印刷台本のアップが遅れ、キャスティングが遅れたのは事実だ。製作サイドと制作サイドのコミュニケーションが密であったかと問われれば、反省しなければならい点も多々あった。
 しかしそれならばもっと前の段階で提案してくれれば対処の仕方もあったというものだ。藤さんの出演が決まり、撮影も四ヵ月後に迫り、出資契約の直前の時期に延期を申し入れなくてもいいんじゃないか。
 私たちは一億円規模の映画をめざしているのであって、A氏がいったような二億円も三億円もかかる映画を撮りたいだなんて誰も考えていなかったのだ。
 一ヵ月前の定例会議で、他のキャスティングが思うようにいかないと困っている制作サイドに、
「大丈夫、雨ふって地固まるということがあります。まだまだこれからです。がんばりましょう」
 といっていた人が、一ヵ月後には延期をいいだすなんてどうしてなんだと私は悲しくなった。
 映画業界は狭いところなので、企画が頓挫するとその情報は一気に広まる。
 延期になった企画は「傷もの」と呼ばれて、俳優もスタッフも次の参加には二の足を踏む。それはそうだと思う。傷ものになるには必ずややこしい理由があるからなのだ。なるべくならそんな作品にかかわりたくないというのが素直な気持ちというものだ。
 だから傷ものにしてはいけない。白羽監督、溝上プロデューサーは必死の説得を試みた。
 確かに時間はあまりないとはいえ、藤さんというカードをみすみす手放すのは惜しい。協力できるところは協力するので、八月の撮影に向けて全力で取り組みませんか?
 しかしA氏とB氏の意志は固く、首をタテに振ることはなかった。製作サイドと制作サイドの溝は埋まらず、話しは平行線をたどったままで時間だけが過ぎていく。
 お互いに言い分はある、それはわかる。動く金額が金額なだけに無闇に首をタテに振ることはできない、それもわかる。しかし制作と製作が対立しては映画づくりは進まない。
 平行線のまま会議を終えた後、溝上さんはすぐに亀田さんに電話を入れて最悪の事態に備えるように指示をした。
「だから素人さんと組むと大変なんですよね」
 溝上さんは自身を責めるような重い口調でそう呟き、監督は
「すみませんでした」
 と頭を下げた。
 その夜の酒は、不吉な爆弾に怯えながら、希望と諦めが交差する重い酒になった。

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2-2 製作と制作がついに決裂。


 その後も水面下でいろいろな調整を試みたけれど、A氏とB氏が納得することはなかった。また、制作サイドも折れることはなく、藤さんでこの夏に撮影というカードに固執した。
 結局、製作サイドと制作サイドが決裂することで決着はみた。
 条件は、企画開発費の二百万円は、取材費や交通費や脚本料として精算する。いま完成している脚本の著作権は制作サイド側、近代映画協会に帰属する。この脚本を活かすも殺すも制作サイド次第で、今後この企画に関して製作サイドは一切口をださないという契約書がかわされた。
 私は正直にいってショックと混乱のなかにいた。
 夢にまでみた撮影まであと四ヵ月だったのだ。
 そのために毎月定例会議を開き、金沢や能登へ足を運んできたのだ。何度もやり直しをしてぶ厚い企画書を書きあげ、四方八方に映画をつくる、映画にでると吹聴しまくったのだ。それだけではない。私は私なりに少しでも出資が期待できそうな知り合いにはかたっぱしから説明にまわってきたのだ。
 それが突然の頓挫だ。撮影の四ヵ月前になっての頓挫だ。
 正直、どうして頓挫したのか、コトの運びがうまく理解できなかった。
 何がいけなくてこうなったのかよくわからなかった。
 ひとつだけ確かなことは、いざこの夏に撮影しようとしても、お金が一銭もないという事実だった。
 決裂が決定した翌日、白羽監督から連絡があった。明日、会えないかという。
 白羽監督は溝上さんといっしょに東京へ戻り、亀田さんも交えて今後の対策を練った上で大阪へトンボ帰りするという。
 翌日の午後、茶屋町の毎日放送の一階のカフェで会った。
 実は決裂が決まってから、私はひとつのことをずっと考えていた。妻にも相談した。
 映画の活動をこのままつづけていいものかどうか、ということだった。
 私はA氏の誘いでこの企画に参加することになった。筋からいえばA氏サイドの人間ということになる。
 しかし物づくりという共通点をもつ白羽監督や溝上さんとはこの半年でぐっと仲良くなった。決裂騒ぎが起こった会議の席上で
「お前はいつからそっちサイドの人間になったんだ」
 とA氏から嫌みをいわれたほどだった。
 せっかくここまで関わってきたのだからできるなら最後までがんばりたい。しかしA氏が離れた以上、私も身を引くのが筋ではないだろうか。
 このことをずっと考えていた。
 妻は身を引くことを勧めた。
 妻はA氏の気持ちを思う以上に、私の本業がおろそかになることを心配していたのだ。映画にのめりこむあまり事務所が傾いては本末転倒だという。
 確かに事務所の売り上げはいっときに比べると下向ぎみだった。しかしそれと映画は関係ない話だった。
 私は答えを見いだせないまま茶屋町へ向かった。白羽監督に会えば率直に相談してみようと思いながら。
 ところが白羽監督に会うと、監督は私のことなどまったくおかまいなしに一方的にまくしたてるのだった。いつにない厳しい表情で。ときには怒りを滲ませながら。
「とりあえず金をつくらなアカン。正直にいって溝上さんも亀田さんも怒っているし、あきれてもいる。こっちからお願いして入ってもらった企画や。もう一度二人を本気にするには金をつくらなアカン。金をつくらな、なくなるんやで。流れるんやで。ごちゃごちゃいうてる時間はもうないわ。オレたちでやるしかないんや」
 圧倒的な迫力だった。
 まわりの状況も私の立場も、そんなことはおかまいなしだった。わがままといわれようが、自分本意といわれようが、そんなこともおかまいなしだった。ただ目の前の企画が流れることをなんとか阻止したいという、数年ぶりにめぐってきたチャンスをなんとか手にいれたい。ただそれだけに今のすべてを賭けている迫力だった。
 私はそのときに二つのことに心を打たれた。
 ひとつは映画監督の性を垣間見た気がしたことだ。
 ああ、これが映画監督という生き物で、映画をつくるためなら他人の事情や置かれている状況など二の次にしてでも前へ進む力をむきだしにする。
 もうひとつは、危機的状況で頼る相手が私だということだ。
 それは消去法の結果かもしれない。A氏とB氏とは決裂し、溝上さんも亀田さんも熱が冷めかけている以上、残るのはこの私しかいないだけかもしれない。
 しかしそれでも白羽監督がいっしょに動こうといってくれたのはうれしかった。具体的な方法はなかったけれど、私は動く気になっていた。

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2-3 一本の電話に勇気づけられる。


 白羽監督と茶屋町のカフェで話しているとき、監督の携帯電話が鳴った。溝上さんからだった。
「心強いです。ありがとうございます。そうお伝えください」
 電話を終えた監督は少し上気していた。
 溝上さんからの電話は朗報だった。
 映画の企画がこのようなことになったので、藤竜也さんには事情を伝えるべきだと判断した溝上さんは、今日、藤さんの事務所へ伺ったという。
 ここ数日の事情をすべて話した。藤さんが降板することも覚悟のうえの訪問だった。しかし話し終えたあとの藤さんの言葉はある意味、予想を超えるものだった。
「私はこの映画に出演したい。この映画を成立させてほしい。八月のスケジュールは今月一杯キープしておくので、その間に目鼻をつけてほしい。その際、私の名前でいいのなら最大限に利用してもらっていい。ぜひがんばってほしい」
 藤さんはそういってくださったのだ。
 五月一杯といえども時間は二週間しかない。東京と大阪の双方で全力を尽くしましょう。溝上さんも監督にそういった。
 映画は人の想いから立ちあがり、人の想いが動かしていくのだ。
 いまから動いて数週間、数ヵ月で一億という大金を用意できる自信はまるでなかったけれど、一度乗りかかった船だ。可能性が少しでもある限りは動かなければならない。
 私は映画の魅力に取り憑かれていた。映画にでる、でないより、最初から最後まで映画づくりにかかわっていきたかったのだ。
「がんばりましょう」
 白羽監督からその話しを聞いて、私もそう答えた。

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2-4 某社長にお願い、一千万を約束してもらう。

 お金を集めなければいけなくなった。
 誰に話しをもっていけばいいのだろう?まず頭に浮かんだのは弱冠三十三歳の事業家F氏だった。
 映画の出資の話を聞いてくれる人はたくさんいる。しかしすぐにお金を都合できる人間となると勤め人では無理だ。自分の判断でお金を動かせる経営者しかいない。
 私は以前からF氏の会社の広告やプロモーションのお手伝いさせていただいていた。青春時代をラグビーに捧げ、学生時代には華やかな成績をのこされた方だ。
 仕事や遊びも豪快だが、人間も豪快だ。そのうえ、義理人情に厚く、男気がある。こんな魅力的な人間を世間が放っておくわけがなく、交友関係も広い。
 私は映画の企画が立ちあがったとき、まっさきにF氏に相談にいった。
 そのときは出資業務は私の本業(?)ではなかったので、こんな面白い話があるのですがどうですかねと軽い相談だった。
 しかし今回は違った。何が何でもお金を用意しなければならないのだ。私は忙しいF氏に時間をつくってもらってオフィスへ説明にあがった。
 私はその席で包み隠さず、これまでのいきさつをすべて話した。
 そのうえでお金が必要なこと。ただし返却できるのは映画の公開後だから数年先になること。F氏に断られると他に手だてがないこと。F氏には何のメリットもないこと。すべてを真摯に話した。
 冷静に考えればF氏が首をタテにふる可能性は低い。
 私は冷静ではなかったのだろう。切羽詰まったウサギはライオンに変わることがあるというがそんな勢いだったと思う。映画をつくりたい、企画を流したくない。その想いだけを何度も何度も熱く語った。
 私はこの場で返事を得る心づもりだった。
 冷静に考えれば誰だって断る内容だ。熱意と情熱と勢いしかF氏をくどく手だてはないと思っていた。
 F氏は私の話をきいてしばらく考え込んだ。十分くらいだろうか。私にはかなり長い時間に感じられた。F氏は穏やかな笑顔を浮かべると
「わかりました」
 といってくださったのだ。
「一千万でいいですか。それなら用意しましょう。ただしこれは映画へ出資するのではありません。西林さんの熱意に動かされて用意するのです。西林さんへお渡しするのです。でも、だからって重荷に感じてもらわなくてもいいですよ。映画は水物だということはわかっています。悪くても七百万くらいは返ってくるでしょ。もし儲かったらその分は西林さんが取ってください。まずはいい映画をつくってください」
 私はうれしさのあまり張り詰めていたものがほぐれ、膝から崩れてしまいそうだった。F氏の誠意にどう答えていいのかわからないまま、ありがとうございますと何度も何度も頭をさげるだけだった。
 その帰り、一息いれるために立ち寄ったカフェで、白羽監督と溝上さんに電話を入れた。
「ほんまか。ようやった!」
 白羽監督の弾んだ声がした。
「本当ですか。それはすごい」
 溝上さんも冷静だけれど感心されている様子が伝わった。

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2-5 タイムリミットは訪れる。


 時間は誰にも平等に訪れ、そして無慈悲に過ぎていく。
 一億円のめどを二週間でたてようと企てる方が無理な話だったのだ。
 案の定というか、お決まりといおうか、東京でも大阪でもさまざまな人にお願いをしたけれど、あまりにも時間がなさすぎた。相手が検討している間に二・三週間なんてあっという間に過ぎていってしまう。
 五月が終わって確約されたお金はF氏の一千万円だけだった。
 私たちに残された道は二つだった。傷ものと呼ばれる覚悟で撮影の延期を決めるか、企画そのものをあきらめるか。
 白羽監督はぜがひでも実現させたいだろう。その気持ちは痛いほどわかる。わかるけれど現実に目をやれば、延期をしたとしてもお金が集まる保証はどこにもないのだ。
 藤さんのこともある。溝上さんは重い足取りで藤さんの事務所へ向かった。
 ご好意で五月いっぱいまで時間をいただいたけれど、めどをたてることができなかったことを溝上さんは藤さんに詫びた。
 するとまたしても思ってもいなかった言葉が藤さんから漏れた。
「私は待っています。満足のいく脚本があがり、撮影ができる日を待っています。それが一年先になるのか、二年先になるのか、十年先になるのかわかりませんが待っています。そしてそのときはどうか真っ先に私に声をかけてください。最優先してスケジュールを調整します。雄一郎役は私がやります。それを忘れないでがんばってください。そしてこれからも私の名前でお役にたてるならどんどん使って資金を集めてください。期待しています」
 事務所からの帰り道、溝上プロデューサーは藤さんの言葉に男泣きをしたという。白羽監督から電話でその話を聞いた私も泣いた。
 傷ものといわれても仕方がない企画に藤さんはそれほどの想いを抱いてくださっているのだ。ありがたい。
 悲観的な空気に包まれていた私たちに、藤さんの言葉が一条の光をもたらしてくれた。
「撮影は来年に延ばしましょう。時間があるから脚本を抜本的に見直しましょうか」
 溝上さんの提案に意義を唱える者はいなかった。
 問題は製作費である。
 今回の映画製作費は一億円を予定していた。
 文化庁が毎年、映画や舞台に助成金をだしている。助成金が降りたとしても最大で製作費の三分の一。通常は満額の七十パーセントが相場という。
 F氏の一千万円と助成金が降りたとして二千万円。残り七千万円を集めなければ撮影に入ることはできない。
 私たちの前に突きつけられた現実だった。

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2-6 ゼロからの石川県行脚。


 まずは石川県の方々に撮影延期になったことの説明に伺わなければならない。
 これまでと大きく異なる点は、いままではB氏の案内で動いていたけれど、これからは自分たちで動かなくてはならないことだ。
 夏の大阪の会議室で、はじめて映画の打ち合わせに参加してから十ヵ月がたとうとしている。その間に私は五度以上も金沢や能登へ入っている。白羽監督の場合は十回ではきかないはずだ。
 その間に地元での支援者は増えていた。
 穴水町の駅前でとびきりおいしい海の幸と寿司をだしてくれる幸寿司の大将、橋本氏と、そこの常連客である、穴水町役場の岡崎氏はその代表格だ。
 インターネットに詳しく、自らもホームページで海の幸を販売している橋本氏が、白羽監督のブログに書き込みをし、それが縁で白羽監督が穴水町を訪れた際に幸寿司へ立ち寄った。店の常連に映画大好き人間がいる。橋本氏はさっそく岡崎氏を呼び、白羽監督に紹介した。三人の間で映画談義に花が咲き、以後、何かにつけて私たちをサポートしてくれている。
 輪島市の大積氏もそのひとり。
 能登半島の食材を販売している「海士屋文四郎」というお店の経営者であり、輪島の商工会議所の要職にもついていらっしゃる方。背の高い男前で、学生時代は大阪の大学の応援団に入っていたという男気溢れる方だ。
 輪島の民宿「深三」の主人の深見さん、七尾の守田さん、能登島で「海とオルゴール」という素敵なカフェを営んでいるさとみさんなど、映画づくりを応援してくださる方の輪は着実に広がっている。
 なかでも忘れてならないのが石川県庁の堀岡氏だ。
 穴水町の岡崎氏の紹介で企画の説明に伺ったのが、二月の中頃だっただろうか。
 堀岡氏は能登空港企画推進課の課長で、能登半島のPRと能登空港の利用促進のために全力を注いでいる方。映画の話をすると、能登のためには願ってもない話だと映画実現のための協力を快く約束してくださった。
 白羽監督と私はそれぞれの方に事情を説明し、今後のことを話した。
 説明後はどなたの顔にも困惑の表情が浮かんだけれど、どうしてこんなことになったんだと責められることはなかった。ありがたいことにみなさんは私たち以上に前向きで、がんばりましょうとか前進あるのみと、逆に励ましてくださった。
 夜になってお酒が入ると本音もちらりと見え隠れして
「いままで映画はみるだけやったけぇ、わからんかったけど、いざつくるとなるといろいろあるんやね」
 と映画づくりの苦労をねぎらってくれる。
 しかし誰もやめようとか一抜けたとはいわなかった。酒が入ると、誰もが明るく、前向きに、これからの映画のこと、能登の今後のことを熱く語り合うのだった。

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2-7 動かない。まったく動かない。


 脚本をさらに発展させよう。どうせなら抜本的に変えようと改定作業が始まろうとしていた。
 能登という魅力的な食材の宝庫を映画の舞台にするのだから、もっと食にこだわって、いままでの日本映画界にはないグルメな映画にしよう。
 私は以前から辻調理師専門学校の広告の仕事をお手伝いさせていただいていた。仲の良い先生方に映画の説明に伺い、料理監修のお願いをすることにした。
 広報室長の小山氏は詩人の顔ももつ文化人で、映画にも明るい方。一生に一度は本格的に映画と関わりたかったなんで、私と同じようなことをおっしゃってうれしくなってしまった。
 教授の肥田先生は若い頃は世界中を放浪して、各地の料理を勉強されたという、映画の主人公、雄一郎の役を地でいかれたような方。料理の知識もさることながら、穏やかな口調で世界の料理について説明される姿には大人の色気のようなものが滲んでいて格好良かった。
 みなさん映画への協力には前向きに取り組んでくださるとうれしい返事をいただいた。
 制作面の体勢は着々と固まっていくけれど、肝心の資金集めはというといっこうにぱっとしなかった。というかまったく動きがなかった。
 自分たちでお金をつくらなければならなくなってからというもの、私と白羽監督は毎月のように金沢・能登入りするようになった。
 手元の手帳を繰ってみるとこんな具合だった。

 五月十七日、金沢。
 五月十八日、七尾、輪島。
 五月二十九日、金沢。
 五月三十日、珠洲、輪島。
 六月十日、金沢。
 六月十一日、輪島。
 六月二十二日、金沢。
 七月二日、金沢。
 七月三日、白山。
 七月十一日、金沢。
 七月十二日、輪島。

 もちろん観光で移動していたのではない。
 私たちは毎月のように金沢入りしているが、観光をしたのは時間潰しのために二十一世紀美術館を訪れたくらいで、私は未だに兼六園に行ったことはない。
 県庁の方や支援者から、この人に話をもっていくといいとか、この企業なら人肌ぬいでくれるはずだという情報や紹介を得て、企画の趣旨を説明に伺うのだ。
 東京へも何度も行った。石川県出身者が経営している企業へ協力をお願いするためだ
 白羽監督と私はどんな小さな糸口だって捨てずにたぐっていった。
 溺れるものは藁をもつかむというやつだ。東京での脚本会議などで白羽監督が動けないときは、私ひとりでも説明に行った。
 しかし動かなかった。
 誰もが私たちの話を聞いてくれる。映画で能登のすばらしさを全国へアピールすることにも賛同してくれる。すばらしい企画だ。応援する。がんばってほしい。みなさんがみなさんそうおっしゃってくれる。
 しかし私たちがいま必要としているのは映画づくりの資金なのだ。金銭面での協力を求めているのだ。
 そのことに話が進むと、にこやかに微笑んでいた顔に陰が射したり、とうとう来たかと横を向かれたり、「うむ」とか「ああ」とか急に言葉が濁ったり表情が曖昧になったりする。応援することと、お金をだすことは別なのだ。そこで空気が冷える。会話がとぎれる。
 時期も悪かった。
 その年の五月に、松竹映画の『釣りバカ日誌十七 あとは能登なれ ハマとなれ』が石川県で撮影されることになっていることは先にも書いた。
 県をあげてロケを招聘したとかで、能登の各市町村にも、人と金の両面からの協力依頼が降りていた。
『釣りバカ日誌』はメジャー映画だから県や市町村への要望もハンパではなく、私たちがお願いにまわっている時期は、無数のイナゴの大群が通り過ぎた後の畑のように、県や各市町村の予算はすっかり食い尽くされてしまっていた。
 思えば支援者の、細く、小さなツテをたよって、たぐって、 監督とふたりで毎月のように行脚しているけれど、あそこに小さな光があると見つけてはよろこび、 近づくとふっ消えてしまって消沈する。
 金沢行きのサンダーバードのなかでは小さな期待に胸を躍らせて、そこはかとなく高揚しながらおしゃべりに花を咲かせて向かうけれど、大阪へ帰る車内では口数も少なく、うなだれぎみに車窓の風景を眺めるか、首を肩に落として眠ってしまう、そんな泣き笑いの連続だった。
 それでも白羽監督はめげなかった。夜になると、うまい魚とお酒で一日の疲れを癒す。
 その席で白羽監督は、
「九回断られても十回目に協力してくれる人と出会えればいい」
 といって笑うのだった。
 この態度は個人的にとても勉強になった。

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2-8 悲観的になっても一銭の得にもならん。


 カフェで珈琲を飲んでいるときや、バーでお酒を飲んでいるときなど、白羽監督はよくこういった。
「悲観的になっても一銭の得にもならん。ポジティブでいかな何ごともはじまらん」
 白羽監督の言葉が私の胸に響いたのには理由がある。
 私は三十歳のときに独立して自分の事務所を構えた。
 お得意にも恵まれ、時代の風もあって、事務所は順調に右肩あがりの成長をつづけた。
 特に苦労した覚えもなく、仕事を得るためにかけずりまわることもなかった。ただ仕事が楽しかったのだ。飲んだり、食べたりするより仕事が楽しかったのだ。
 土、日曜も関係なく仕事をした。朝一番ののぞみで東京へ行って、一日中打ち合わせをして、最終ののぞみで帰ってきても、新大阪の駅からタクシーで事務所へ戻った。
 若いスタッフも入れ、広告賞も何度か受賞した。家を建て、夏休みは家族でハワイへでかけることもできた。
 無我夢中で仕事をしてきた私は、技を覚え、術を覚えた。
 裸の知覚を忘れ、すれっからしになった私は、人のおかげで今があることを忘れ、成功は自分のチカラによるものだと思うようになった。人に感謝する心を昨日に置き去りにして、自分の実力で明日を拓けると思うようになっていた。
 天狗にもなった。手間ばかりかかる仕事は断った。
 やがて設立をして十年を過ぎたあたりで、何かが止んだ。
 そう、何かが止んだとしか表現しようのない微妙な変化に気づかないまま、他人ができることは自分はしなくていいとうそぶいて仕事をスタッフに任せた。
 当然、売り上げは下がっていく。仕事の減少は時代のせいにしたり、お得意のせいにしたりした。
 実績というのはありがたいもので、事務所の売り上げは年々下がっていくものの、銀行が味方をしてくれて、借り入れでなんとか事務所は維持できた。
 十年以上も事務所を経営していると、いつもいい状態でいることができないことはわかっている。電話もならず、人も訪れない凪の状態のときだってある。これまでにも何度か暇な時期はあった。
 しかしこの一年の凋落はいままでにないものだった。
 いまに良くなるだろう、いまに動きだすだろうと思っていても事態はなかなか進展しない。先の不安は広がる一方で、さすがに焦りを覚える。
 五月の決算は、はじめて赤字になった。
 そんな状態だったから白羽監督の言葉は響いた。
 くよくよしても何もはじまらない。行動あるのみ。いま、この映画の状態のように。私は石川県へ行脚へ向かうたびに勇気づけられて事務所へ戻った。

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2-9 謎の中東人、登場。


 監督と私が石川県入りすると必ず寄るのが石川県庁の堀岡氏のところだった。
 能登の知名度があがり、能登空港の利用が促進されるのならどんな協力もおしまないと、堀岡氏は私たちの無理なお願いにも首を横に振らず汗をかいてくださる。
 また、文化庁の助成金が降りたらという前提で
「国が支援する映画なら県としても放っておくわけにはいかん。奥能登開発基金からお金を捻出するよう知事に陳情する」
 といい、知事から一千万円の補助金をだす了解を取り付けてくださった。
 それだけではない。映画の記事を書くように地元の新聞社に働きかけてくださったり、石川県や東京の優良企業を紹介してくださったり、外様の私たちではどうすることもできない案件の数々も
「うむ、やってみるわ」
 といって叶えてくださる。
 間違いなく堀岡さんがいなかったら『能登の花ヨメ』は陽の目を見ることはなかったといえる。
 七月二十四日の午後、堀岡さんから電話が入った。
「明日、私の友人の藤岡さんという人が大阪で講演をするので、その前に会って映画の説明をしてもらえんやろか。昨日の夜、藤岡さんに映画の相談をすると面白そうだと乗り気なんや」
 藤岡さんとはニューヨークに在住している投資アドバイザーだそうで、投資アドバイザーといえば金融のプロ中のプロ。しかもニューヨークで、ニューヨーカーを相手に仕事をしているとなれば世界規模のノウハウを持っている人物ということになる。
 運よく大阪で投資に関する講演会を行うので、その前後に私たちに会う時間をつくってくれることになった。
「初対面ですけどわかりますかね」
「大丈夫や。アラブ人みたいな大男で口髭をはやした人がおったら、それが藤岡さんや」
 その言葉を頼りに指定されたヒルトンホテルへ向かうと、本当に中東人みたいに大柄で、りっぱな口髭をたくわえた人がいた。藤岡さんだった。
 藤岡さんはニューヨークで投資アドバイザーをする一方で、石川県にある観光バスの会社「富士交通」の会長も務めている。その関係で年に何度か金沢へ戻ってくるそうだ。
 今回は十日間という短い滞在で、今日、大阪で講演をすませると明日の飛行機でニューヨークへ帰るという。
 少し遅れてやってきた白羽監督とふたりで映画についての説明をした。藤岡さんは映画に関する投資は扱ったことはないが興味はあるという。
「いくら必要なんですか?」
「一億です」
「一億でいいの。それで映画ができるの」
「ハリウッドとは違いますから」
「一億なんてすぐ集まるでしょ。ファンドを組めば一発です」
「だからハリウッドのような映画ではないもので・・・」
 藤岡さんのいる世界や藤岡さんが扱う投資金額が桁違いだったので、はじめはなかなか話しが噛み合わなかった。
 それに日本の映画界ではファンドを組んだ実例はあるものの、まだ一般的な資金集めの手法にはなっていなかった。できればファンド以外の方法で資金を調達していきたいというのが私たちの希望だった。
「わかりました。ちょっと考えてみましょう」
 と藤岡さんはおっしゃって、ニコっと笑った。笑うと子供のような目になる人だった。
 藤岡さんは不思議な人だった。関西にも関東にも、もちろん金沢や能登でもおめにかかったことのないタイプの人だった。
 強いていうならこれがニューヨーカーというものなのだろうか?
 つねにジョークを交えた会話を展開するのでどこから本気でどこから冗句なのかわかりかねることがあった。「ノープロブレム」「問題ない」を連発して、自分が関わる物事はすべてうまくいくと、あの白羽監督を上回るポジティブ志向の人だった。その自信の出所がわからないから、正直、私は軽い混乱を覚えた。
 その翌日、白羽監督は自分のブログにこう書いた。
「神降臨か、真夏の夜の夢か。来週金沢へ。ジャジャーン」

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2-10 そして北國新聞事業部へ。


 藤岡さんはその場でさまざまなアイデアとサジェッションを与えてくれた。
「まず、この人に会いなさい。高校時代の同級生ですが、きっとチカラになってくれはずです。私からも連絡を入れておきます」
 その人の名は、北國新聞事業部事業本部長の稲垣氏だった。
 石川県には北國新聞社と北陸中日新聞社という2つの地方新聞社があるけれど、北陸中日新聞社の本社機能が名古屋であるのに対し、北國新聞社は金沢にあることが大きく異なる。
 私は映画の仕事で石川県へ通うようになる前から北國新聞社を知っていた。県内カバー率が七十パーセント以上とずばぬけて素晴らしい新聞社なのだ。地元に密着した地方紙といえども県内カバー率が七十パーセントを超える新聞社はそうあるものではない。
 よく考えていただきたい。県内のカバー率が七十パーセントを超えるということは、石川県民の三人に二人は北國新聞を読んでいるということだ。この影響力や察してしかるべしである。
 後になって私は北國新聞でコラムを書かせてもらったことがある。カラーの紙面で私の写真入りだった。
 掲載の翌日、金沢の繁華街、片町の交差点で信号待ちをしていると、見ず知らずの人から
「あの〜、新聞にでていた人ですよね」
 と声をかけられたことがある。私はそのとき、北國新聞社の影響力をまざまざを知った。
 その事業本部長を紹介されたのだ。白羽監督と私はさっそく翌週に金沢へ入った。
 ニューヨークへ帰った藤岡さんから稲垣さんへはちゃんと連絡が入っていた。そのあたりはさすがにニューヨークのビジネスマン。行動がすばやい。
 話しはそれるが、藤岡さんが私たちの映画づくりに本腰をいれて協力する決め手となったは、私のレスポンスの速さだったという。
 私は関西人特有の“いらち”で、トロトロするのもされるのも大嫌いな性格だった。それでずいぶん損な目や失敗もしたけれど、何ごともちゃっちゃと進めなければ気が済まない。
 携帯電話に留守電が入っていたら気づいた時点でコールバックする。メールが届いたら可能な限りすぐに返事をする。
 ニューヨークの藤岡さんから私の所へ頻繁にメールが届いた。私はすぐに返事を返した。その速さが藤岡さんの心を打ったようだ。
「こんなにすばやく反応するのは本気である証拠だ。情熱のある人との仕事なら失敗するわけがない。だから私も本気になったのです」
 後に藤岡さんは、金沢の「いたる」という居酒屋で、この企画にのめりこむきっかけをこう話してくれた。
 さて、北國新聞社の事業本部長、稲垣さんは上質なスーツをビシッと着こなした紳士だった。
 表情や口調も穏やかだった。やり手とは聞いていたけれど、本当のやり手といわれる人の大半がそうであるように、稲垣さんも物腰が柔らかい。
 おそらく事業本部長ともなれば、日々、さまざまな企画案件が持ち込まれるのだろう。それでも稲垣さんは私たちの話をちゃんと聞いてくれた。すぐに北國新聞社が出資するとはいえないけれど協力は惜しまないとおっしゃってくれた。
「まず、県内で盛りあがることやな」
 稲垣さんはそういうと文化部の記者を呼び寄せ、その場で私たちを取材させた。記事は翌日の朝刊に写真入りで大きく掲載された。

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