第1章 映画はこうしてできあがる。

熱湯に放りこまれた蛙。


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第1章 映画はこうしてできあがる。

    1-1 映画にだしたろか。その一言からはじまった。
    1-2 映画監督を初めて見た
    1-3 映画はこうしてできあがる。
    1-4 自ら出演交渉をする。
    1-5 映画のタイトルは『春がきた。』に。
    1-6 映画はまずホンありき。脚本家は誰だ。
    1-7 シナリオハンティング。言葉の狩りにでる。
    1-8 初めての銀幕行脚、金沢へ。能登へ。
    1-9 能登の感動は全身的。


第2章 ゼロからの石川

    2-1 そして事件。撮影は来年に延期せよ。
    2-2 製作と制作がついに決裂。
    2-3 一本の電話に勇気づけられる。
    2-4 某社長にお願い、一千万を約束してもらう。
    2-5 タイムリミットは訪れる
    2-6 ゼロからの石川県行脚。
    2-7 動かない。まったく動かない
    2-8 悲観的になっても一銭の得にもならん。
    2-9 謎の中東人、登場。
    2-10 そして北國新聞事業部へ。
    2-11 キリコ祭りを初体験。


第3章 明けない夜はない

    3-1 終焉の影に怯えながら。それでも動きまわる。
    3-2 はじめての石川県全体会議。
    3-3 賽は投げられた。
    3-4 密かな裏切り。
    3-5 東京サイドもエンジン全開。
    3-6 石川県で支援組織が生まれる。
    3-7 『海辺のテーブル』にタイトル変更。


第4章 地震が能登を襲う

    4-1 三月二十五日の能登半島地震。
    4-2 考えて、考えて、再度企画を変更する。
    4-3 脚本作業と同時進行して。
    4-4 記者会見をする。
    4-5 協賛企業が集まりはじめる
    4-6 主演女優が決定。
    4-7 田中さん、泉さんの出演がさらに応援の輪を。
    4-8 制作スタッフも決まる。
    4-9 そしてクランクイン。


第5章 地方発映画という新しいビジネスモデル。

    5-1 撮影することが目的ではない。
    5-2 撮影終了後に北國新聞を訪れた理由
    5-3 石川県発の映画にしましょう。
    5-4 地方気質を逆利用する。
    5-5 文化庁の助成金という危ない橋。
    5-6 汗はかくけど、口はださない。
    5-7 素敵なキチガイがいるか。
    5-8 信頼できるプロデュサーの見つけ方。
    5-9 映画のシステムは変わる。
    5-10 熱湯に放りこまれた蛙。
    5-11 そして最後の最後に。

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1-1 映画にだしたろか。その一言からはじまった。


「お前、映画にでたいっていってたよな」
「ええ、夢ですわ。どんな役でもええんです。映画にでて、エンディングロールの役者の欄に自分の名前がでたら死んでもええ」
「だしたろか?」
「ほんまですか?」
 夜の遅く、どこかのバーの片隅でそんなやりとりがあり、その夜から私は右も左もわからない映画の世界へ足を踏み入れていくことになる。

 私は大学を卒業してからずっと広告の世界で生きてきた。
 制作プロダクションに入り、コピーライターの修業をして、三十歳を機に独立をして今に至る。新聞広告、雑誌広告、ポスター、会社案内など、主にグラフィックと称される印刷媒体の広告を得意にしてきた。たまにテレビCFの企画が舞い込むことはあったけれど、映像関係の仕事は稀だった。
 私のお得意のひとつにコンサルティング会社がある。ことの発端はそこの社長のA氏だった。
 素人にとって映画づくりなんて遠い世界の話だ。誰もがそう思っている。私もそう思っていたし、A氏もそう思っていた。たまたまA氏のまわりに映画監督がいて、話を聞いていると、劇場公開映画といっても智恵と汗を出し合えば低予算でつくることができるとわかった。
 A氏の会社はまもなく創業二十周年を迎えようとしていた。
 監督の話に心を動かされたA氏は、二十周年を記念した行事に映画制作も悪くないという気になった。
 A氏はまわりの人にこの話をした。
 石川県にある印刷会社の社長B氏が関心を抱いた。B氏は能登を舞台にした映画をつくることで、能登の活性化がはかれないかと考えたのだ。
 石川県のB社長が一千万、大阪のA氏が一千万。あとは文化庁の助成金や関係者の出資を募れば一億円くらいの算段はつくということになった。
 そうとなれば本格的な制作体制が必要となる。
 映画監督が奔走して、東京の老舗の映画制作プロダクション「近代映画協会」の溝上プロデューサーと亀田プロデューサーの協力を得ることに成功した。
 東京から二人のプロデューサーが大阪へやってくる。初めての会議が開かれる一週間前、私はA氏と食事をしていて、そのときに冒頭の会話となったのだ。
 オレは金をだす側だからオレがいえばおまえを映画にだすくらいはどうにでもなる。その代わり、なにぶん映画関係のことはわからないので会議に同席することと、映画のプロモーションはお前が引き受けるというのが条件といわれた。
 私にしてみればそんなことでいいのならお安いご用だった。
 そして翌週、私はA氏のオフィスへ向かった。1-1 映画にだしたろか。その一言からはじまった

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1-2 映画監督を初めて見た。(はじめての全体会議)


 私が会議に出席したのは二〇〇五年八月二十五日のことだった。
 A氏のオフィスの会議室へ入ると見慣れない人ばかりだった。
 会議はまず、紹介からはじまった。
 A氏とともに出資をする、石川県の印刷会社の社長B氏。監督の白羽氏。東京からは今回の制作を担当する近代映画協会の溝上氏と亀田氏。
 私は映像の世界に生きる人、しかも映画業界の人間はほとんど知らない。特に映画監督という人間を目の当たりにするのは初めてだった(CFの監督は撮影の立ち会いのときに見たことはあったけれど)。
 白羽監督はとにかく大きな人、というのが第一印象だった。
 背の大きさは映画監督のなかでもトップクラスらしい。大柄で有名な黒沢明監督より大きいらしい。声もでかい。低く、よく通る声をしている。
 そのうえ何ごとにも動じない岩のような、来るものを跳ね返す巨大な熊のような雰囲気を発散していた。白羽監督が私より年下とは想像すらできなかった。
 白羽監督は日本大学芸術学部演劇学科演出コースを卒業後、弱冠二十八の若さで監督デビューをする。
 作品は「シーズ・レイン」。
 私にとって「シーズ・レイン」は懐かしいタイトルだった。私は大学時代に原作を初版で読んでいた。
 当時は村上春樹が颯爽と登場して、一大ブームが起こっていた頃だった。私のまわりの友人もこぞって村上作品を読んでいた。私も村上春樹の世界に夢中になった一人だ。
 その流れで私は平中悠一作品を手にしたのだと思う。
 神戸という特殊な風土の描き方は、村上春樹よりも平中悠一の方が深く、鮮やかだった。私は「シーズ・レイン」を読んだあとにも、他の平中作品を読んだ記憶がある。
 あの「シーズ・レイン」を映画化した監督なのか。私は白羽監督に不思議な距離の近さを覚えた。
 溝上さんは控えめで、静かな口調で語る人だった。
 映画をつくるということはどういうことなのか、映画が成功するためには何が大切なのか?映画づくりは何から取りかかるのか?いま決めるべき事は何か?いまから取り組むことは何なのか?
私たち素人にもわかるように噛んで含めるように説明する態度が大人だった。
 亀田氏は控えめに事の展開を見守っているという様子だった。
 このメンバーが中心になって映画をつくっていく。その日一番最初に確認されたことだった。

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1-3 映画はこうしてできあがる。


 映画にはさまざまな人がかかわってできていく。
 素人の私が知っているだけでも、監督がいて、脚本家がいて、カメラマンがいて、美術や録音の人がいて、さらにプロデューサーやら何やらたくさんの人が参加していく。
 この会議ではまず、溝上氏による役割の説明からはじまった。
 映画のクレジットでいつも疑問に思っていたのは、製作と制作の違いだった。
 衣偏がつくセイサクとつかないセイサクはどう違うのか?
 溝上氏は端的に説明してくれた。
 映画はお金がなくてはできない。お金をだす人、あるいはお金を工面する人は製作と呼ばれる。カタカナで表記すればエグゼクティブプロデューサーだ。出資契約をすると、期日までに自分だでそうが、企業等から工面しようがその契約金額をすべて用意しなければならない。金を集めるという重要なポジションを担う人なのでクレジットにはトップで紹介される。ちなみに下に衣がつかない制作は、映画づくりを請け負う会社を指す。
 プロデューサーは、全体を統括する人。お金集めにも参画するし、企画会議や脚本会議にも参加するし、撮影の現場にも立ち会って万が一のときに備える。
 ラインプロデューサーは撮影現場の管理を主に担当する。
 今回の企画でいえば、大阪のA氏と石川県のB氏が製作、エグゼクティブプロデューサーということになり、制作は近代映画協会。プロデューサーは溝上氏と亀田氏ということになる。
 私には企画という役割が振り当てられた。
 出資者への企画書を作成したり、広報やプロモーションの企画を担当するというわけだ。
 この役割分担に異論は誰もなかった。
 やがて大まかなスケジュールが検討された。
 まずは企画である。
 今回は能登の映画をつくろうというだけで、小説や漫画などの原作があるわけではない。脚本家を決めて、現地を取材して、映画のストーリーを固めなければならない。
 脚本があがるとキャスティングである。
 同時にスタッフの選定となる。助監督、撮影、照明、録音ばかりではない。一本の映画づくりかかわるスタッフは、美術や衣装やメイクなど四十名か五十名の大所帯となる。一日分のギャラもばかにできない金額だ。雨で一日伸びるだけで数百万円が飛んでいくという。
 そして撮影である。
 撮影が終わったからといって完成ではない。編集作業が待っている。
 膨大な撮影フィルムからベストなシーンを選んで、さらに効果的に編集していくのだ。この段階で効果音や音楽が加えられて完成へ近づいていく。
 ゼロ号試写という関係者だけの試写会を行って、次に配給会社へプレゼンテーションを兼ねた試写会を行う。
 配給会社が決まると公開へ向けての作業となる。
 公開日にあわせてポスターやパンフレットなど宣伝ツールを作成し、プロモーションを展開する。
 そして公開である。
 今回の映画の場合、溝上さんの大まかなスケジュールによると年内一杯で企画と脚本を固め、年明けの二〇〇六年からキャスティング。撮影はその年の五月頃。公開は再来年、二〇〇七年の春をめざすとのことだった。
 映画の製作費は、溝上さんの提案で一億円以内に抑えることに決まった。
 この規模ならなんとか回収することは可能だけれど、これ以上になると、万が一のときは出資者に迷惑がかかることがある。映画はビジネスであって賭けではないというが近代映画協会の基本的な考えだ。採算の合わない企画を進めるわけにはいかない。
 近々の作業としては、製作サイドは九月一杯をめどに二百万円の企画開発費を用意する。制作サイドは脚本家を決定しておく。
 おそらくさまざまな難題がふりかかるだろうけれど、来年の撮影と再来年の公開をめざして、全員で力をあわせてがんばるという決意を確認して、その日の会議は終わった。
「なにぶん映画づくりに関しては素人なので、私たちは金はだすが口はださないということを基本姿勢にしたい。映画づくりに参加できるなんて夢にも思っていなかったので、ぜひともがんばる。よろしくお願いしたい」
 製作のA氏の言葉に、
「そのスタンスが一番大切なのです。映画づくりに素人も玄人も関係ありません。いい映画をつくりたいという思いが一番大切なのです。ぜひ、いっしょにいい映画をつくりましょう」
 白羽監督が力強い声でそういって、出席者一同、明日の成功を約束しあった。
「しかし映画って時間がかかるものなのですね」
 広告の世界からみるとなんと悠長なスケジュールだろうと私は思っていた。広告のキャンペーンは、オリエンテーションから数ヵ月で実施なんてざらなのだ。
「われわれのような独立系の映画は時間がかかるんですよ」
 溝上さんがポツリといったが、そのときの私は言葉の意味を本当にはわかっていなかった。

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1-4 自ら出演交渉をする。


 会議は前向きに、和気あいあいと進んでいった。
 ところがそろそろ終わろうという頃になっても、A氏はいっこうに例の話しを持ち出してくれなかった。
 私の映画出演の件である。
 映画にでることができるのかできないのかが、その日の私のメインテーマでもあったのだ。
 しびれを切らした私は勇気を振り絞って自分から口火を切った。
「あの、ひとつお願いがあるのですが」
「はい?」
 白羽監督が怪訝そうな顔をする。溝上さんも亀田さんも何をいいだすのやらと私をみる。
「企画書づくりでも広告づくりでも何でもしますから、あの、映画にだして欲しいのですが・・・」
「役者・・、ということですか?」
 白羽監督がつめよる。
「いえ、そんな大層なことでなくていいんです。ちょい役でもワンカットでもいいんです。夢なんです。映画のエンディングロールがあるでしょ。役者の欄に自分の名前がでることが前からの夢だったんです。そのためだったら何でもしますから・・・、ダメでしょうか」
「役者の経験はあるのですか?」
「いえ・・・」
「演劇部にいたとか?」
「まったく・・・」
「映画青年でしたか?」
「文学青年でしたけど・・・」
 溝上さんがにっこり笑って白羽監督と私のやりとりをみている。亀田さんは少々あきれ顔だった。
「その代わり何だってしますから。チケットも買いますから。一千枚、そう一千枚は買いますから」
「一千枚、それはすごい」の
 と溝上さんは笑いながらいった。
「わかりました。役をつけましょう。それでがんばってもらえるのならお安い御用です」
「本当ですか!ならば気の弱いチンピラ役か、バーのおかまのマスター役なんてどうでしょう?」
 調子に乗っていった私に白羽監督がピシャリと
「あなた、変な映画の見過ぎじゃないですか?第一、そんな人は今度の映画にでてきません」
 といってみんなの笑いを誘った。
 やれやれではあるけれど、私はなんとか出演交渉を果たした。監督が役をつくるといったのだから、私は必ず出演できるのだろう。
 銀幕デビューか。そう思うと頬が緩んでくるのだった。

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1-5 映画のタイトルは『春がきた。』に。


 溝上氏と亀田氏の会社は東京にある。白羽監督は神戸の人。B氏は石川県。A氏と私の会社は大阪にある。
 全員が参加しての会議は一ヵ月に一度の割合で開くことに決まったが、関西組はそれよりも頻繁に会って細部を詰めることになった。
 まず早急に必要となるのは、出資企業を募るための企画書だ。
 私は会議の翌日から企画書作業にとりかった。
 溝上氏からそれまでの映画の企画書のサンプルを入手し、必要項目の洗い出しをした。それに広告者ならではの視点と表現を加え、一週間後にあげた第一稿は、現在決まっている事、これからの事、スケジュール等、A四の用紙十八枚にもおよぶものとなった。
 A氏のオフィスに白羽監督と私と、タイミングがあえばB社長も同席して、企画書の細部を詰めていく修正作業を何度も行った。
 関西組がもうひとつ頭を悩ませていたのはタイトルだった。
 A氏は映画にしろ、書籍にしろ、タイトルがすべてという持論の持ち主だった。
 白羽監督が書いたあらすじのようなものがあって、タイトルは仮称だけれど『奥能登ペニンシュラ亭』と名付けられていた。
 A氏は『奥能登ペニンシュラ亭』に満足していなかった。白羽監督もあくまで仮称と思っていたので、タイトルを考えることに異論はなかった。
 会議の席上でさまざまなタイトル案が提案されては却下された。
 そんなことを何度か繰り返すうちに、白羽監督がポツリといった
「『春がきた。』ってどうでしょう」
 とても平易な言葉なのに、目の前が開けてくるタイトルだ。希望を覚えるタイトルであり、ハッピーで明るい印象を醸しですタイトルだ。恋が実って春がきた。家族が戻って春がきた。能登の雪がとけて春がきた。桜が咲いて春がきた。色んな意味が想起されるタイトルだ。
 白羽監督は当初から、「能登は暗い」というイメージを覆す映画にしたいといっていた。雪、雲、荒れ狂う日本海。能登はそんなイメージだけでくくられる町ではない。能登は明るく、前向きで、楽しいところなのだ。
 そんな思いから生まれたタイトル。A氏もとても気に入り、タイトルは『春がきた。』で行こうということに決まった。
 企画書もほぼできあがり、タイトルも決まった。
 製作サイドは最終の企画書をもって出資者捜しを本格化させることになった。九月十五日のことだった。

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1-6 映画はまずホンありき。脚本家は誰だ。


 プロデューサーの溝上さんが所属する近代映画協会は、二〇〇八年現在、日本最高年齢の監督、新藤兼人氏が興した制作プロダクションだ。
 創業して約半世紀になる。「近代映画協会」の歴史は、日本映画独立プロダクションの歴史ともいわれる老舗の制作会社だ。
 歴史があるだけではなく、『原発の子』『裸の島』『鬼婆』『ある映画監督の生涯〜溝口健二の生涯』『午後の遺言状』などの名作や話題作を発表して、いまもなお積極的に映画を制作している。
 新藤兼人氏が日本を代表するシナリオライターでもあることから、近代映画協会の映画づくりには“映画はまずホンありき”という姿勢が貫かれている。
 映画業界には、一スジ、二ぬけ、三役者という言葉があるという。
 映画の父、牧野省三氏が残した言葉で、映画はまずスジ、つまりストーリー、次にぬけとは絶妙なカメラワーク、そして三番目に役者だというのだ。その考えを地でいくのが近代映画協会で、脚本づくりにはこだわって、こだわって、こだわりぬくという。
 さらに脚本の出来はキャスティングに大きく影響していく。
 映画の場合、俳優は脚本を読んでから出演を決める。人によってはギャラよりも脚本の内容を重視する。脚本に動かされたり、出演することで今後の自分にプラスになると判断すると、たとえ厳しい出演料やスケジュールでも首を縦にふる。
 逆に脚本に魅力がなかったり、出演する意義を見いだせなかった場合は、いくら金を積んでも了承しないこともあるという。脚本は映画の命ともいえるのだ。
 企画開発費も捻出されたので脚本作業にかかることができる。さて、脚本家を誰にするか。
 白羽監督はある人を想定していたようだ。しかし溝上さんはこう考えていた。
 能登の新しいイメージを形成する映画なので、脚本家選びも新しい観点で選んでもいいんじゃないだろうか。いわゆるこの人ならこうあがるだろうと想像のつく人〜ある意味安定しているということなのだが〜に依頼するより、冒険かもしれないけれど新しい人に頼もう。
 溝上さんが白羽の矢を立てたのが、国井桂さんだった。
 国井さんは一度、保険会社に務めた。しかし書きたいという情熱は消えることがなく、専門講座で学んだ後にシナリオライターに転身した。一九九七年に深夜ドラマで脚本家デビューをしてからはテレビドラマを中心に自力をつけた。映画の方でも、『修羅雪姫』(二〇〇一年)、『オシャレ魔女ラブandベリー/しあわせのまほう』(二〇〇七年)、「夕凪の街 桜の国」(二〇〇七年)と着実に実績をあげている。
 右肩あがりの脚本家だけに多忙な国井さん、予算が潤沢ではない企画なのに私たちの申し出を快く了承してくれた。
 脚本家が決まった。
 白羽監督、溝上さん、亀田さん、そして国井さんがまず取りかかったことは、能登の魅力をリサーチするためにシナリオハンティングの日程を調整することだった。

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1-7 シナリオハンティング。言葉の狩りにでる。


 映画の世界ではよくハンティングをする。
 ロケハンは耳に馴染んだ言葉だろう。ロケーションをする場所を探すことだ。ただ、場所を探すのではない。その物語に最適な風景、その舞台にベストの空間を探しに探しまわるのだ。
「峠から坂道がまっすぐに下りていてその先に集落がポツンとあるところを探してこい」
 若き日に溝上さんは新藤監督にそう命じられて、岡山県の山という山をかけずりまわったという。
 ではシナハンとは何だろう。
 私も知らなかったが、シナリオハンティングの略で、原作のない映画で一から物語を起こすときは、舞台となる町を巡って風土や風習を調べたり、物語に使えそうなその地ならではのエピソードを収集する作業のことなのだ。
 机上で生まれる物語にリアリティをあたえる言葉の狩りをすることといえばいいのか。
十二月に白羽監督と脚本家の国井さんと溝上・亀田両プロデューサーが揃って能登入りをした。
 現地の人の案内でオーストラリア人が経営する海辺のイタリア料理店や能登島のカフェを訪ねたり、七尾市、輪島市、珠洲市、能登町、穴水町をまわった。朝市、千枚田、千里浜海岸、厳門などの名所の他、キリコ会館や中島演劇堂などもみてまわる。
 夜は夜で、能登ならではの絶品の海の幸を堪能しながら、シナリオ談義に花が咲いたという。
 今日みたあの風景をこう使おう、あのおばあさんのエピソードはこう発展させようと、酒のチカラも手伝って談義は盛りあがったという。
「実はね、映画をつくるなかでもシナハンのときが一番楽しいんですよ」
 一度、溝上さんが私にそういったことがある。
 この段階では諸々の規制はない。出資者からの要望もなければ、お金の心配もない。いい映画をつくるという思いだけを中心に夢を育てる段階なのだ。

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1-8 初めての銀幕行脚、金沢へ。能登へ。


 白羽監督はもう何度も能登入りをしているけれど、私は未だ舞台となる地を訪れていない。
「それは関係者としてアカンのちゃうか」
 会議の後の食事のときに白羽監督にそういわれた。
「今度、一緒に行こうよ」
 ありがたいお誘いだった。
 実は、私は北陸地方をほとんど知らない。
 大学時代の同級生が金沢出身で、結婚式のときに招待されて訪れたことはあった。小さなプロダクションに就職したてのときで、身の程知らずにも私は結婚もして子供が生まれた直後でもあったので、小さな新居は貧窮の極みの状態だった。金沢に行ってもおいしいものを食べ歩くこともなく、観光地をまわることもなかった。
 いわば今回が初金沢、初能登入りといっても過言ではない。
 白羽監督と私は、大阪を朝の八時四十二分にでるサンダーバードに乗り込んだ。以後、この列車が私たちの通勤列車になるとは、そのときはまだ知るよしもなかった。
 食事を楽しんでいる席でもそうだけれど、白羽監督は列車のなかでもいろいろと映画の世界のことを教えてくれる。
 私は広告業界の人間なので映画の世界は初心者だ。裏話をまじえながらの映画講義は、若葉マークの私に有意義な時間となった。
 晩秋の北陸は天候が不順だ。晴れたと思えば曇り、雨が降ったと思ったら虹がかかっていたりする。
 その日の金沢も厚く重い雲に覆われ、ときおり突風が吹くあいにくの天候だった。
 ツテのツテを頼って、何社かの企業へ協力のお願いへ伺った。
 正直にいってお会いする方々の反応はイマイチだった。どこの馬の骨がやってきたのか、という感じ。まずはどんなヤツか見定めなければという感じ。
 しかしそれはもっともなことだと思う。立場を逆転して考えればいい。
 ある日突然、映画をつくるから会って欲しいといわれて、まだ具体的でもない企画を聞かされて、さあやんなはれ、好きにしなはれ、協力はおしみませんなんていえるだろうか?お金以外のことで、映画ができたら協力しましょうというのが関の山だ。
 また、当時は、次の春に松竹映画の『釣りバカ日誌』が能登で撮影されることが決まっていて、行政の人もマスコミ関係者も映画といえば『釣りバカ』一色だったのだ。
「あちらは大手、あんたらは弱小映画。わしらは大手のお手伝いで手一杯」
 なんていわれたこともある。
 初めて金沢へ入り、ブリーフィングを重ねた私は空を仰いだ。この天候と同じだ。風は向かい風で、目の前には厚く重い暗雲が立ちこめている。
 地元の映画をつくりたいとスタートしたはずなのに、地元にはまったくその気がないという現実をつきつけられて、私は正直戸惑ってしまった。
 B氏の話と違うな。
 村上春樹の小説の主人公なら“やれやれ”と呟くだろうし、本宮ひろ志の漫画の主人公ならその辺りのゴミ箱を蹴り飛ばしているだろう。
 大阪の会議室の温度と、地元の温度との違いを初めて知った日だった。

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1-9 能登の感動は全身的。


 とはいえ、はじめて訪れた能登に私は魅了された。
 まずは人である。おだやかで、やさしい。
 金沢の人もやさしかったけれど、北へ行けば行くほど、能登へ入れば入るほど人の顔がやさしくなるのがわかった。手触りのよい、安穏としたみせかけだけのやさしさではない。きびしいこと、つらいことを経たうえで手に入れたやさしさとでもいおうか。どちらかといえば無愛想で無骨で言葉も荒いが、その奥にある限りない温かさが私の心に沁みてくるのだ
 車から下りて風景をデジカメで撮影していると、学校帰りの小学生が見知らぬ私に頭をさげて
「こんにちは」
 と挨拶をする。これには参った。己を恥じた。都会ではおよそ考えられない光景。しかし昔の日本ではあたりまえの光景が、ここ、能登では古びることなく日常として存在しているのだ。
 そして風景だ。海があり、山がある。
 海もふたつの顔を持っている。
 日本海側の海は激しく厳しい海だ。千里浜海岸を過ぎると、以北の風景は荒磯と断崖に代わる。波と風が時間をかけて削った、荒い、ごつごつとした岩の造形が現れる。能登半島の最北端へ行くまでは、背に山、腹に海、磯沿いの道は誰もが思い描く日本海の風景がつづく。
 半島の最北端から東側の道をくだり、内灘に入ると海の光景も一変する。穏やかでやさしい海が牡蠣を育てている。ひと口に海といっても激しい海とやさしい海が能登にはあるのだ。
 山の美しさも忘れてはならない。
 飛行機で能登空港へ降りようとするときによくわかるけれど、眼下のそれは深く、鮮やかな緑の絨毯のようだ。
 幹線道路を折れて小道を奥へ、奥へと進んでいくと集落にでくわす。陽射しに輝く黒瓦のどっしりとした家が点在し、夕方になると畑の向こうで細い煙があがっていたりする風景は、日本人の誰もが心に描く原風景といっても過言ではない。
 田んぼでは米、畑では野菜、山では栗や林檎がつくられている。
 そして何といっても食べ物だ。
 金沢の居酒屋でのどぐろの塩焼きを食べた感動はどのようにあらわそう。熱々の身は柔らかく、口へ運ぶと淡泊なのに脂あって、噛むと脂の向こうから甘さがあらわれて私の全身をふるわせる。焼き魚といえばキンキとのどぐろにとどめを刺すという私の持論はこのときに確立した。
 それだけではない。蟹、ブリ、甘エビ、イカなど、能登の魚をあげればきりがない。
 さらに野菜だ。さつまいもや金時草、加賀太きゅうりや加賀れんこんなどの加賀野菜、その他にも能登には地味豊かな野菜がたくさんある。
 ブリ大根など、私はそれほど好きではなかった。ところが能登で食べたブリ大根はブリも違えばイカも大根も違う。いしるという、能登地方ならではの魚醬を使っているせいだろうか、深く豊かな海と大地の合唱は大阪で食べるものとはまるで違う一品なのだ。
 こんな嬉しい体験を重ねて、私は能登の人と風景と食に魅了されていく。

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1-10 タイトル変更『海とキリコとアオイ』。


 東京では脚本作業が本格化していた。
 脚本は一挙にあがらない。まずシノプシスといって、短いあらすじのようなもので全体の構成を確認する。キャラクターの性格を整え、シークエンスを整理する。今回の場合は、シノプシスの段階だけで4稿もあげてストーリーを練りに練った。
 構成が固まると、次はハコ書きといって、シノプシスに会話やディテールを加えたものに成長させていく。
 シノプシスがワードの原稿で十枚程度なら、ハコ書きは二十枚ほど。ト書きから会話がメインになってくる。
 そのハコ書きを何度か修正して、いよいよ脚本の原稿となる。
 ハコ書きに移る段階で問題が発生した。
 ストーリーとスケジュールが煮詰まってくると、それまで気づきもしなかったことがいろいろと具体的にみえてくる。
 タイトルへの疑問もそのひとつだった。
 スケジュール的に春先の撮影が無理ということがわかってきた。
 撮影は桜が散った後になる。桜はない、光は初夏か夏の輝きで、はたして『春がきた。』というタイトルが示すような像が撮れるだろうか?
 結局、タイトルを変更することに決まった。大阪での定例会議でも了承された。
 では、どんなタイトルがいいのか?
 監督、脚本家、プロデューサーが頭をひねった。
 これというタイトルがでないので、一度持ち帰って、それぞれが案を出し合うことになった。白羽監督から私にもタイトルを考えるように指示があった。
 年末の十二月二十九日を締め切りに各自が案をメールで提出して、全員で投票。獲得投票の多いタイトルを採用することになった。
 投票結果は実にバラついた。最多獲得投票数は二票で、あとはみんな一票という結果だった。白羽監督と溝上さんが話し合い、結局その最多票のタイトルにすることにした。
 それが『海とキリコとアオイ』。
 キリコはキリコ祭り、アオイはアオイ貝とヒロインの名前、アオイをかけていた。
 なにはともあれタイトルは決まった。そして撮影は二〇〇六年夏に行うことも決定した。

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1-11 会議のあとのお楽しみ。


 大阪での定例会議は、A氏のオフィスの会議室で、月に一度のペースで行われていた。
 その席でシナハンの成果が報告され、シノプシスからハコ書きに進展したことが報告された。
 製作をはじめて担当するB氏からは、協力者への効果的な説得方法の相談などもあった。そして毎回、遅れ気味になっているけれど、今後のスケジュールが溝上さんからきっちりと報告され、確認された。
 白羽監督、溝上さん、亀田さんに共通するものがある。それはグルメだということ。
 映画界には食いしん坊も飲んべえも多いが、「本当においしいもの」を探る情熱を持ち合わせている人は少ないという。
 そんなメンバーが取り組む映画だから、『海とキリコとアオイ』は、日本映画ではめずらしい、美味しいものがでてくる映画にしようと企てられていた。
 ただ、美味しいものがでてくるだけではいけない。食材や料理が美味しくみえる、ということが映画的には肝要で、美味しそうに見えて、食欲が湧かなければ取り組む意味がない。
 映画を見終わって「あれ食べたいなー」と思わせたら成功だ。「バベットの晩餐会」のフランス料理のフルコースのように。「初恋のきた道」の愛のきのこ餃子のように。「暗殺のオペラ」のイタリアの稀少生ハム、クラテッロのように。そして「お茶漬の味」で鶴田浩二が勧める中華そばのように。
 食についてなら、大阪は食い倒れの町だ。私も食べることは大好きだ。
 かくして会議のあとは白羽監督と溝上さんと私とで、毎回、大阪のうまいもんを食べ歩くようになった(この時期の亀田さんは、別の映画の撮影現場に入っていてそちらの仕事で精一杯だった)。
 白羽監督が堂山の「新田」へみんなを連れて行けば、次の会議の後は私が千日前の「徳家」へ案内した。やがて大阪寿司の「夷左翁」、串揚げの「知多留」、四川料理の「福龍園」など、白羽監督と競い合ってうまいもん処をまわった。
 溝上さんも会議後の食事をとても楽しみにしているとわかると、さらに店選びにはチカラが入ったものだ。
 食事の後は酒である。
 食だけでなくお酒もみんないける口だったので一次会で終わるわけがなかった。
 堂山の「ムルソー」、曾根崎の「インスパイアー」「北サンボア」、江戸堀の「バー立山」、ミナミの「ナジャ」「チルドレン」などのカウンターでワインやウイスキーを飲んだ。
 夜の会合に参加してよかったことは、白羽監督や溝上さんとコミュニケーションを密にできたことだけではない。映画についての多くの知識、それも現場でたたきあげてきた人からの知識を得ることができたことだ。最新の業界事情も聞けたし、マスコミでは発表できない裏話もたくさん聞けた。
 広告業界ならちっぽけだけれど実績はあるものの、映画についてなら私は右も左もわからない新人だ。夜のカウンターは、私にとって映画の大学になったのだ。
 もちろん、話題の中心にあるのは『海とキリコとアオイ』についてだった。
 どのようにストーリーを展開していこうかとか、能登のあの風習を取り入れると最後のシーンが生きてくるなとか、シノプシスの進展にともなって『海とキリコとアオイ』を育てていくことに言葉が熱くなっていった。
「映画をつくることは誰でもできる。この映画をつくる意義をみつけないと、ただの商業映画になってしまう。そうなると淋しいよね」
 溝上さんの言葉に白羽監督は大きくうなずくと、こんなアイデアはどうかと応えていく。そんな応酬がつづく熱い時間はあっという間に過ぎていく。
 いい歳をした大人が、誰に頼まれたわけでもないし、陽の目をみるかどうかわかりもしない映画について、目を輝かせて議論をする。時間を忘れて話し込む。
 酒の席になると、明るく朗らかな話題だけにならないのが世の常だ。
 いつも女の話になる人がいる。金儲けの話になる人、愚痴になる人、人の悪口になる人がいる。人間、酒を飲んだときは本性が現れるものだ。その点、このふたりは映画の話がほとんどだ。心底、映画を愛しているんだなと思う。
 何事もそうだけれど、人の心を動かすのは熱量だと思う。言葉でもいい。絵でもいい。映画でもいい。芝居でもいい。それを発表するまでにどれだけ考え、議論をして、汗と情熱を注いできたか。それらの総量が観る人、読む人の心を動かすと思うのだ。
 口先や小手先のものに、その先はない。
 私と白羽監督、私と溝上さんは、夜の席を重ねるたびに意気を投合していった。

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1-12 印刷台本が完成。


 二〇〇六年、新しい年を迎えた。
 一月の終わりに、撮影中の亀田さんを除く主要メンバーが揃って大阪で新年会を開き、気合いのこもった決意を確認した。
 この十二月から一月にかけては、東京で頻繁に脚本会議が開かれていた。
 そこは近代映画協会、脚本づくりに妥協はない。時間がかかっても納得のいく“ホン”になるまでは何度も書き直していく。
 そして二月二十四日。ついに印刷台本があがった。大阪の定例会議のときにB氏が刷りたての、まだ湯気がでていそうな台本を持ってきてくれたのだ。
 会議テーブルにど¬ーんと積まれた三十冊の印刷台本。
 まだ準備稿と印刷されているけれど、私にとっては初めてみる本物の印刷台本。いままでのパソコンの出力紙とは言葉の重みが違ってみえるのは気のせいだろうか?
 筋肉は鍛えれば太くなる。足腰は走り込めば強くなる。脚本も同じとはいえ、いうだけならやさしいし、誰にでもできる。
 何もないところからここまでカタチにするのに、脚本家の国井さんは何度描き直し、真夜中に何度呻吟したことか?業種は違うとはいえ、物を書くことを生業としている私は国井さんの苦労がわかるので、テーブルに積まれた印刷台本をみていると、身体の奥から込みあげてくるものがあった。
 パラパラとめくっていると私のシーンもちゃんとあった。
 地元の釣り好きの電気屋、西田。セリフも三つくらい用意されていた。
「いよいよここからはじまるのですね」
 A氏も感慨深い声でいった。
 そう、印刷台本があがるまでに時間はかかったけれど、やっとここからはじまるのだ。キャスティング作業にかかれるのだ。
 出演する俳優は誰か?映画のなかで俳優が占める割合は大きい。
 とくに出資者を募る場合、どんな映画かと問われた次には、誰がでるのかと必ず聞かれる。出演する俳優が決定していない映画に資金を提供しようという人は稀だ。
 製作を担当するA氏にとっても、俳優が決まらない間は行動しずらい状況にあったと思う。いよいよここからという言葉は、A氏やB氏の正直な気持ちだと思う。
 白羽監督や溝上さんにしてもそれは同じことだろう。
 五月の撮影まで残された時間はあまりない。キャスティング作業にかかり、制作スタッフを集めるなど、しなければならないことは山積だ。
 印刷台本の完成は、まさにはじまりなのだ。
 その日の定例会議ではA氏を中心にそのことが確認され、これからに向けての決意を新たにした。それぞれの役割を全力で取り組み、スケジュールの遅れを取り戻すことで意見が一致した。

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1-13 そしてキャスティングへ。


「海とキリコとアオイ」は、能登で伝説の料理店を開いている男が主人公。世界中を放浪してあらゆる料理を取得したうえで、たどりついた能登の地に惚れ込み、店を開いた男だ。腕は確かで、どんな料理をオーダーされても、いとも簡単にとびきりの一品をつくってしまうが、頑固で無愛想。しかし情は深い。
 そこに東京から新米の料理ジャーナリストの若い女性が取材にやってきて、主人公や能登の人々とふれあう。そのなかで若い女性は、利便性や経済性を優先する都会の暮らしで失われたものを再発見していくとともに、現代人が見落としてきた自然への畏敬、人間らしく心豊かに暮らすことの大切さをみいだしていくという物語。
 このふたりの配役をどうするかが今回の映画の大きなポイントとなる。
 キャスティングで大切なのは「納得と驚き」だ。
「ああ、あの人が」とみんなが納得する一方で、「えっ、あの人が」というサプライズがあってはじめて、映画への興味も映画の感動も生まれてくる。
 主人公役にはさまざまな候補があげられたが、そのなかでもベストと思える俳優が出演を了承してくれた。
「どえらい人がオーケーしてくれた」
 白羽監督は大阪にいた私へ興奮気味の声で電話をしてきた。
 その名は、藤竜也。
 日活の映画『望郷の海』でデビューして以来、映画を主軸に俳優活動をしてきた。日本映画界の大物にして、まだまだ精力的に映画やテレビに出演している。   
 実はキャスティングの会議で候補にあがってはいたものの、私はまさかオーケーしてもらえるとは思ってもいなかった。予算も厳しい、スケジュールも厳しいからだ。
 しかし溝上さんが藤さんの事務所へ脚本を送ると、まもなくして詳しい話を聞きたいという返事があり、実際に事務所に伺って企画の意図を説明すると出演オーケーの返事が届いたのだ。
 承諾の裏には、藤さんの能登への思いもあったという。
 藤さんはこの前の夏に能登半島をひとりで旅したそうだ。そこで出会った風景や人に強く心をうたれ、能登の魅力にどっぷりはまったという。さらにラッキーなことに、八月の藤さんのスケジュールが奇跡的に空いていた。そんな折りに能登を舞台にした映画の企画が舞い込んだのだ。
「全力で取り組みます。いい映画にしましょう」
 藤さんのそんな言葉を伝え聞いた私たちは、喜びに身を震わせた。

・・・第1章終了。

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