トップページ

2008年5月

熱湯に放りこまれた蛙。


conents


第1章 映画はこうしてできあがる。

    1-1 映画にだしたろか。その一言からはじまった。
    1-2 映画監督を初めて見た
    1-3 映画はこうしてできあがる。
    1-4 自ら出演交渉をする。
    1-5 映画のタイトルは『春がきた。』に。
    1-6 映画はまずホンありき。脚本家は誰だ。
    1-7 シナリオハンティング。言葉の狩りにでる。
    1-8 初めての銀幕行脚、金沢へ。能登へ。
    1-9 能登の感動は全身的。


第2章 ゼロからの石川

    2-1 そして事件。撮影は来年に延期せよ。
    2-2 製作と制作がついに決裂。
    2-3 一本の電話に勇気づけられる。
    2-4 某社長にお願い、一千万を約束してもらう。
    2-5 タイムリミットは訪れる
    2-6 ゼロからの石川県行脚。
    2-7 動かない。まったく動かない
    2-8 悲観的になっても一銭の得にもならん。
    2-9 謎の中東人、登場。
    2-10 そして北國新聞事業部へ。
    2-11 キリコ祭りを初体験。


第3章 明けない夜はない

    3-1 終焉の影に怯えながら。それでも動きまわる。
    3-2 はじめての石川県全体会議。
    3-3 賽は投げられた。
    3-4 密かな裏切り。
    3-5 東京サイドもエンジン全開。
    3-6 石川県で支援組織が生まれる。
    3-7 『海辺のテーブル』にタイトル変更。


第4章 地震が能登を襲う

    4-1 三月二十五日の能登半島地震。
    4-2 考えて、考えて、再度企画を変更する。
    4-3 脚本作業と同時進行して。
    4-4 記者会見をする。
    4-5 協賛企業が集まりはじめる
    4-6 主演女優が決定。
    4-7 田中さん、泉さんの出演がさらに応援の輪を。
    4-8 制作スタッフも決まる。
    4-9 そしてクランクイン。


第5章 地方発映画という新しいビジネスモデル。

    5-1 撮影することが目的ではない。
    5-2 撮影終了後に北國新聞を訪れた理由
    5-3 石川県発の映画にしましょう。
    5-4 地方気質を逆利用する。
    5-5 文化庁の助成金という危ない橋。
    5-6 汗はかくけど、口はださない。
    5-7 素敵なキチガイがいるか。
    5-8 信頼できるプロデュサーの見つけ方。
    5-9 映画のシステムは変わる。
    5-10 熱湯に放りこまれた蛙。
    5-11 そして最後の最後に。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

1-1 映画にだしたろか。その一言からはじまった。


「お前、映画にでたいっていってたよな」
「ええ、夢ですわ。どんな役でもええんです。映画にでて、エンディングロールの役者の欄に自分の名前がでたら死んでもええ」
「だしたろか?」
「ほんまですか?」
 夜の遅く、どこかのバーの片隅でそんなやりとりがあり、その夜から私は右も左もわからない映画の世界へ足を踏み入れていくことになる。

 私は大学を卒業してからずっと広告の世界で生きてきた。
 制作プロダクションに入り、コピーライターの修業をして、三十歳を機に独立をして今に至る。新聞広告、雑誌広告、ポスター、会社案内など、主にグラフィックと称される印刷媒体の広告を得意にしてきた。たまにテレビCFの企画が舞い込むことはあったけれど、映像関係の仕事は稀だった。
 私のお得意のひとつにコンサルティング会社がある。ことの発端はそこの社長のA氏だった。
 素人にとって映画づくりなんて遠い世界の話だ。誰もがそう思っている。私もそう思っていたし、A氏もそう思っていた。たまたまA氏のまわりに映画監督がいて、話を聞いていると、劇場公開映画といっても智恵と汗を出し合えば低予算でつくることができるとわかった。
 A氏の会社はまもなく創業二十周年を迎えようとしていた。
 監督の話に心を動かされたA氏は、二十周年を記念した行事に映画制作も悪くないという気になった。
 A氏はまわりの人にこの話をした。
 石川県にある印刷会社の社長B氏が関心を抱いた。B氏は能登を舞台にした映画をつくることで、能登の活性化がはかれないかと考えたのだ。
 石川県のB社長が一千万、大阪のA氏が一千万。あとは文化庁の助成金や関係者の出資を募れば一億円くらいの算段はつくということになった。
 そうとなれば本格的な制作体制が必要となる。
 映画監督が奔走して、東京の老舗の映画制作プロダクション「近代映画協会」の溝上プロデューサーと亀田プロデューサーの協力を得ることに成功した。
 東京から二人のプロデューサーが大阪へやってくる。初めての会議が開かれる一週間前、私はA氏と食事をしていて、そのときに冒頭の会話となったのだ。
 オレは金をだす側だからオレがいえばおまえを映画にだすくらいはどうにでもなる。その代わり、なにぶん映画関係のことはわからないので会議に同席することと、映画のプロモーションはお前が引き受けるというのが条件といわれた。
 私にしてみればそんなことでいいのならお安いご用だった。
 そして翌週、私はA氏のオフィスへ向かった。1-1 映画にだしたろか。その一言からはじまった

| | コメント (1) | トラックバック (0)

1-2 映画監督を初めて見た。(はじめての全体会議)


 私が会議に出席したのは二〇〇五年八月二十五日のことだった。
 A氏のオフィスの会議室へ入ると見慣れない人ばかりだった。
 会議はまず、紹介からはじまった。
 A氏とともに出資をする、石川県の印刷会社の社長B氏。監督の白羽氏。東京からは今回の制作を担当する近代映画協会の溝上氏と亀田氏。
 私は映像の世界に生きる人、しかも映画業界の人間はほとんど知らない。特に映画監督という人間を目の当たりにするのは初めてだった(CFの監督は撮影の立ち会いのときに見たことはあったけれど)。
 白羽監督はとにかく大きな人、というのが第一印象だった。
 背の大きさは映画監督のなかでもトップクラスらしい。大柄で有名な黒沢明監督より大きいらしい。声もでかい。低く、よく通る声をしている。
 そのうえ何ごとにも動じない岩のような、来るものを跳ね返す巨大な熊のような雰囲気を発散していた。白羽監督が私より年下とは想像すらできなかった。
 白羽監督は日本大学芸術学部演劇学科演出コースを卒業後、弱冠二十八の若さで監督デビューをする。
 作品は「シーズ・レイン」。
 私にとって「シーズ・レイン」は懐かしいタイトルだった。私は大学時代に原作を初版で読んでいた。
 当時は村上春樹が颯爽と登場して、一大ブームが起こっていた頃だった。私のまわりの友人もこぞって村上作品を読んでいた。私も村上春樹の世界に夢中になった一人だ。
 その流れで私は平中悠一作品を手にしたのだと思う。
 神戸という特殊な風土の描き方は、村上春樹よりも平中悠一の方が深く、鮮やかだった。私は「シーズ・レイン」を読んだあとにも、他の平中作品を読んだ記憶がある。
 あの「シーズ・レイン」を映画化した監督なのか。私は白羽監督に不思議な距離の近さを覚えた。
 溝上さんは控えめで、静かな口調で語る人だった。
 映画をつくるということはどういうことなのか、映画が成功するためには何が大切なのか?映画づくりは何から取りかかるのか?いま決めるべき事は何か?いまから取り組むことは何なのか?
私たち素人にもわかるように噛んで含めるように説明する態度が大人だった。
 亀田氏は控えめに事の展開を見守っているという様子だった。
 このメンバーが中心になって映画をつくっていく。その日一番最初に確認されたことだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

1-3 映画はこうしてできあがる。


 映画にはさまざまな人がかかわってできていく。
 素人の私が知っているだけでも、監督がいて、脚本家がいて、カメラマンがいて、美術や録音の人がいて、さらにプロデューサーやら何やらたくさんの人が参加していく。
 この会議ではまず、溝上氏による役割の説明からはじまった。
 映画のクレジットでいつも疑問に思っていたのは、製作と制作の違いだった。
 衣偏がつくセイサクとつかないセイサクはどう違うのか?
 溝上氏は端的に説明してくれた。
 映画はお金がなくてはできない。お金をだす人、あるいはお金を工面する人は製作と呼ばれる。カタカナで表記すればエグゼクティブプロデューサーだ。出資契約をすると、期日までに自分だでそうが、企業等から工面しようがその契約金額をすべて用意しなければならない。金を集めるという重要なポジションを担う人なのでクレジットにはトップで紹介される。ちなみに下に衣がつかない制作は、映画づくりを請け負う会社を指す。
 プロデューサーは、全体を統括する人。お金集めにも参画するし、企画会議や脚本会議にも参加するし、撮影の現場にも立ち会って万が一のときに備える。
 ラインプロデューサーは撮影現場の管理を主に担当する。
 今回の企画でいえば、大阪のA氏と石川県のB氏が製作、エグゼクティブプロデューサーということになり、制作は近代映画協会。プロデューサーは溝上氏と亀田氏ということになる。
 私には企画という役割が振り当てられた。
 出資者への企画書を作成したり、広報やプロモーションの企画を担当するというわけだ。
 この役割分担に異論は誰もなかった。
 やがて大まかなスケジュールが検討された。
 まずは企画である。
 今回は能登の映画をつくろうというだけで、小説や漫画などの原作があるわけではない。脚本家を決めて、現地を取材して、映画のストーリーを固めなければならない。
 脚本があがるとキャスティングである。
 同時にスタッフの選定となる。助監督、撮影、照明、録音ばかりではない。一本の映画づくりかかわるスタッフは、美術や衣装やメイクなど四十名か五十名の大所帯となる。一日分のギャラもばかにできない金額だ。雨で一日伸びるだけで数百万円が飛んでいくという。
 そして撮影である。
 撮影が終わったからといって完成ではない。編集作業が待っている。
 膨大な撮影フィルムからベストなシーンを選んで、さらに効果的に編集していくのだ。この段階で効果音や音楽が加えられて完成へ近づいていく。
 ゼロ号試写という関係者だけの試写会を行って、次に配給会社へプレゼンテーションを兼ねた試写会を行う。
 配給会社が決まると公開へ向けての作業となる。
 公開日にあわせてポスターやパンフレットなど宣伝ツールを作成し、プロモーションを展開する。
 そして公開である。
 今回の映画の場合、溝上さんの大まかなスケジュールによると年内一杯で企画と脚本を固め、年明けの二〇〇六年からキャスティング。撮影はその年の五月頃。公開は再来年、二〇〇七年の春をめざすとのことだった。
 映画の製作費は、溝上さんの提案で一億円以内に抑えることに決まった。
 この規模ならなんとか回収することは可能だけれど、これ以上になると、万が一のときは出資者に迷惑がかかることがある。映画はビジネスであって賭けではないというが近代映画協会の基本的な考えだ。採算の合わない企画を進めるわけにはいかない。
 近々の作業としては、製作サイドは九月一杯をめどに二百万円の企画開発費を用意する。制作サイドは脚本家を決定しておく。
 おそらくさまざまな難題がふりかかるだろうけれど、来年の撮影と再来年の公開をめざして、全員で力をあわせてがんばるという決意を確認して、その日の会議は終わった。
「なにぶん映画づくりに関しては素人なので、私たちは金はだすが口はださないということを基本姿勢にしたい。映画づくりに参加できるなんて夢にも思っていなかったので、ぜひともがんばる。よろしくお願いしたい」
 製作のA氏の言葉に、
「そのスタンスが一番大切なのです。映画づくりに素人も玄人も関係ありません。いい映画をつくりたいという思いが一番大切なのです。ぜひ、いっしょにいい映画をつくりましょう」
 白羽監督が力強い声でそういって、出席者一同、明日の成功を約束しあった。
「しかし映画って時間がかかるものなのですね」
 広告の世界からみるとなんと悠長なスケジュールだろうと私は思っていた。広告のキャンペーンは、オリエンテーションから数ヵ月で実施なんてざらなのだ。
「われわれのような独立系の映画は時間がかかるんですよ」
 溝上さんがポツリといったが、そのときの私は言葉の意味を本当にはわかっていなかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

1-4 自ら出演交渉をする。


 会議は前向きに、和気あいあいと進んでいった。
 ところがそろそろ終わろうという頃になっても、A氏はいっこうに例の話しを持ち出してくれなかった。
 私の映画出演の件である。
 映画にでることができるのかできないのかが、その日の私のメインテーマでもあったのだ。
 しびれを切らした私は勇気を振り絞って自分から口火を切った。
「あの、ひとつお願いがあるのですが」
「はい?」
 白羽監督が怪訝そうな顔をする。溝上さんも亀田さんも何をいいだすのやらと私をみる。
「企画書づくりでも広告づくりでも何でもしますから、あの、映画にだして欲しいのですが・・・」
「役者・・、ということですか?」
 白羽監督がつめよる。
「いえ、そんな大層なことでなくていいんです。ちょい役でもワンカットでもいいんです。夢なんです。映画のエンディングロールがあるでしょ。役者の欄に自分の名前がでることが前からの夢だったんです。そのためだったら何でもしますから・・・、ダメでしょうか」
「役者の経験はあるのですか?」
「いえ・・・」
「演劇部にいたとか?」
「まったく・・・」
「映画青年でしたか?」
「文学青年でしたけど・・・」
 溝上さんがにっこり笑って白羽監督と私のやりとりをみている。亀田さんは少々あきれ顔だった。
「その代わり何だってしますから。チケットも買いますから。一千枚、そう一千枚は買いますから」
「一千枚、それはすごい」の
 と溝上さんは笑いながらいった。
「わかりました。役をつけましょう。それでがんばってもらえるのならお安い御用です」
「本当ですか!ならば気の弱いチンピラ役か、バーのおかまのマスター役なんてどうでしょう?」
 調子に乗っていった私に白羽監督がピシャリと
「あなた、変な映画の見過ぎじゃないですか?第一、そんな人は今度の映画にでてきません」
 といってみんなの笑いを誘った。
 やれやれではあるけれど、私はなんとか出演交渉を果たした。監督が役をつくるといったのだから、私は必ず出演できるのだろう。
 銀幕デビューか。そう思うと頬が緩んでくるのだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

1-5 映画のタイトルは『春がきた。』に。


 溝上氏と亀田氏の会社は東京にある。白羽監督は神戸の人。B氏は石川県。A氏と私の会社は大阪にある。
 全員が参加しての会議は一ヵ月に一度の割合で開くことに決まったが、関西組はそれよりも頻繁に会って細部を詰めることになった。
 まず早急に必要となるのは、出資企業を募るための企画書だ。
 私は会議の翌日から企画書作業にとりかった。
 溝上氏からそれまでの映画の企画書のサンプルを入手し、必要項目の洗い出しをした。それに広告者ならではの視点と表現を加え、一週間後にあげた第一稿は、現在決まっている事、これからの事、スケジュール等、A四の用紙十八枚にもおよぶものとなった。
 A氏のオフィスに白羽監督と私と、タイミングがあえばB社長も同席して、企画書の細部を詰めていく修正作業を何度も行った。
 関西組がもうひとつ頭を悩ませていたのはタイトルだった。
 A氏は映画にしろ、書籍にしろ、タイトルがすべてという持論の持ち主だった。
 白羽監督が書いたあらすじのようなものがあって、タイトルは仮称だけれど『奥能登ペニンシュラ亭』と名付けられていた。
 A氏は『奥能登ペニンシュラ亭』に満足していなかった。白羽監督もあくまで仮称と思っていたので、タイトルを考えることに異論はなかった。
 会議の席上でさまざまなタイトル案が提案されては却下された。
 そんなことを何度か繰り返すうちに、白羽監督がポツリといった
「『春がきた。』ってどうでしょう」
 とても平易な言葉なのに、目の前が開けてくるタイトルだ。希望を覚えるタイトルであり、ハッピーで明るい印象を醸しですタイトルだ。恋が実って春がきた。家族が戻って春がきた。能登の雪がとけて春がきた。桜が咲いて春がきた。色んな意味が想起されるタイトルだ。
 白羽監督は当初から、「能登は暗い」というイメージを覆す映画にしたいといっていた。雪、雲、荒れ狂う日本海。能登はそんなイメージだけでくくられる町ではない。能登は明るく、前向きで、楽しいところなのだ。
 そんな思いから生まれたタイトル。A氏もとても気に入り、タイトルは『春がきた。』で行こうということに決まった。
 企画書もほぼできあがり、タイトルも決まった。
 製作サイドは最終の企画書をもって出資者捜しを本格化させることになった。九月十五日のことだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

1-6 映画はまずホンありき。脚本家は誰だ。


 プロデューサーの溝上さんが所属する近代映画協会は、二〇〇八年現在、日本最高年齢の監督、新藤兼人氏が興した制作プロダクションだ。
 創業して約半世紀になる。「近代映画協会」の歴史は、日本映画独立プロダクションの歴史ともいわれる老舗の制作会社だ。
 歴史があるだけではなく、『原発の子』『裸の島』『鬼婆』『ある映画監督の生涯〜溝口健二の生涯』『午後の遺言状』などの名作や話題作を発表して、いまもなお積極的に映画を制作している。
 新藤兼人氏が日本を代表するシナリオライターでもあることから、近代映画協会の映画づくりには“映画はまずホンありき”という姿勢が貫かれている。
 映画業界には、一スジ、二ぬけ、三役者という言葉があるという。
 映画の父、牧野省三氏が残した言葉で、映画はまずスジ、つまりストーリー、次にぬけとは絶妙なカメラワーク、そして三番目に役者だというのだ。その考えを地でいくのが近代映画協会で、脚本づくりにはこだわって、こだわって、こだわりぬくという。
 さらに脚本の出来はキャスティングに大きく影響していく。
 映画の場合、俳優は脚本を読んでから出演を決める。人によってはギャラよりも脚本の内容を重視する。脚本に動かされたり、出演することで今後の自分にプラスになると判断すると、たとえ厳しい出演料やスケジュールでも首を縦にふる。
 逆に脚本に魅力がなかったり、出演する意義を見いだせなかった場合は、いくら金を積んでも了承しないこともあるという。脚本は映画の命ともいえるのだ。
 企画開発費も捻出されたので脚本作業にかかることができる。さて、脚本家を誰にするか。
 白羽監督はある人を想定していたようだ。しかし溝上さんはこう考えていた。
 能登の新しいイメージを形成する映画なので、脚本家選びも新しい観点で選んでもいいんじゃないだろうか。いわゆるこの人ならこうあがるだろうと想像のつく人〜ある意味安定しているということなのだが〜に依頼するより、冒険かもしれないけれど新しい人に頼もう。
 溝上さんが白羽の矢を立てたのが、国井桂さんだった。
 国井さんは一度、保険会社に務めた。しかし書きたいという情熱は消えることがなく、専門講座で学んだ後にシナリオライターに転身した。一九九七年に深夜ドラマで脚本家デビューをしてからはテレビドラマを中心に自力をつけた。映画の方でも、『修羅雪姫』(二〇〇一年)、『オシャレ魔女ラブandベリー/しあわせのまほう』(二〇〇七年)、「夕凪の街 桜の国」(二〇〇七年)と着実に実績をあげている。
 右肩あがりの脚本家だけに多忙な国井さん、予算が潤沢ではない企画なのに私たちの申し出を快く了承してくれた。
 脚本家が決まった。
 白羽監督、溝上さん、亀田さん、そして国井さんがまず取りかかったことは、能登の魅力をリサーチするためにシナリオハンティングの日程を調整することだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

1-7 シナリオハンティング。言葉の狩りにでる。


 映画の世界ではよくハンティングをする。
 ロケハンは耳に馴染んだ言葉だろう。ロケーションをする場所を探すことだ。ただ、場所を探すのではない。その物語に最適な風景、その舞台にベストの空間を探しに探しまわるのだ。
「峠から坂道がまっすぐに下りていてその先に集落がポツンとあるところを探してこい」
 若き日に溝上さんは新藤監督にそう命じられて、岡山県の山という山をかけずりまわったという。
 ではシナハンとは何だろう。
 私も知らなかったが、シナリオハンティングの略で、原作のない映画で一から物語を起こすときは、舞台となる町を巡って風土や風習を調べたり、物語に使えそうなその地ならではのエピソードを収集する作業のことなのだ。
 机上で生まれる物語にリアリティをあたえる言葉の狩りをすることといえばいいのか。
十二月に白羽監督と脚本家の国井さんと溝上・亀田両プロデューサーが揃って能登入りをした。
 現地の人の案内でオーストラリア人が経営する海辺のイタリア料理店や能登島のカフェを訪ねたり、七尾市、輪島市、珠洲市、能登町、穴水町をまわった。朝市、千枚田、千里浜海岸、厳門などの名所の他、キリコ会館や中島演劇堂などもみてまわる。
 夜は夜で、能登ならではの絶品の海の幸を堪能しながら、シナリオ談義に花が咲いたという。
 今日みたあの風景をこう使おう、あのおばあさんのエピソードはこう発展させようと、酒のチカラも手伝って談義は盛りあがったという。
「実はね、映画をつくるなかでもシナハンのときが一番楽しいんですよ」
 一度、溝上さんが私にそういったことがある。
 この段階では諸々の規制はない。出資者からの要望もなければ、お金の心配もない。いい映画をつくるという思いだけを中心に夢を育てる段階なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

1-8 初めての銀幕行脚、金沢へ。能登へ。


 白羽監督はもう何度も能登入りをしているけれど、私は未だ舞台となる地を訪れていない。
「それは関係者としてアカンのちゃうか」
 会議の後の食事のときに白羽監督にそういわれた。
「今度、一緒に行こうよ」
 ありがたいお誘いだった。
 実は、私は北陸地方をほとんど知らない。
 大学時代の同級生が金沢出身で、結婚式のときに招待されて訪れたことはあった。小さなプロダクションに就職したてのときで、身の程知らずにも私は結婚もして子供が生まれた直後でもあったので、小さな新居は貧窮の極みの状態だった。金沢に行ってもおいしいものを食べ歩くこともなく、観光地をまわることもなかった。
 いわば今回が初金沢、初能登入りといっても過言ではない。
 白羽監督と私は、大阪を朝の八時四十二分にでるサンダーバードに乗り込んだ。以後、この列車が私たちの通勤列車になるとは、そのときはまだ知るよしもなかった。
 食事を楽しんでいる席でもそうだけれど、白羽監督は列車のなかでもいろいろと映画の世界のことを教えてくれる。
 私は広告業界の人間なので映画の世界は初心者だ。裏話をまじえながらの映画講義は、若葉マークの私に有意義な時間となった。
 晩秋の北陸は天候が不順だ。晴れたと思えば曇り、雨が降ったと思ったら虹がかかっていたりする。
 その日の金沢も厚く重い雲に覆われ、ときおり突風が吹くあいにくの天候だった。
 ツテのツテを頼って、何社かの企業へ協力のお願いへ伺った。
 正直にいってお会いする方々の反応はイマイチだった。どこの馬の骨がやってきたのか、という感じ。まずはどんなヤツか見定めなければという感じ。
 しかしそれはもっともなことだと思う。立場を逆転して考えればいい。
 ある日突然、映画をつくるから会って欲しいといわれて、まだ具体的でもない企画を聞かされて、さあやんなはれ、好きにしなはれ、協力はおしみませんなんていえるだろうか?お金以外のことで、映画ができたら協力しましょうというのが関の山だ。
 また、当時は、次の春に松竹映画の『釣りバカ日誌』が能登で撮影されることが決まっていて、行政の人もマスコミ関係者も映画といえば『釣りバカ』一色だったのだ。
「あちらは大手、あんたらは弱小映画。わしらは大手のお手伝いで手一杯」
 なんていわれたこともある。
 初めて金沢へ入り、ブリーフィングを重ねた私は空を仰いだ。この天候と同じだ。風は向かい風で、目の前には厚く重い暗雲が立ちこめている。
 地元の映画をつくりたいとスタートしたはずなのに、地元にはまったくその気がないという現実をつきつけられて、私は正直戸惑ってしまった。
 B氏の話と違うな。
 村上春樹の小説の主人公なら“やれやれ”と呟くだろうし、本宮ひろ志の漫画の主人公ならその辺りのゴミ箱を蹴り飛ばしているだろう。
 大阪の会議室の温度と、地元の温度との違いを初めて知った日だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

1-9 能登の感動は全身的。


 とはいえ、はじめて訪れた能登に私は魅了された。
 まずは人である。おだやかで、やさしい。
 金沢の人もやさしかったけれど、北へ行けば行くほど、能登へ入れば入るほど人の顔がやさしくなるのがわかった。手触りのよい、安穏としたみせかけだけのやさしさではない。きびしいこと、つらいことを経たうえで手に入れたやさしさとでもいおうか。どちらかといえば無愛想で無骨で言葉も荒いが、その奥にある限りない温かさが私の心に沁みてくるのだ
 車から下りて風景をデジカメで撮影していると、学校帰りの小学生が見知らぬ私に頭をさげて
「こんにちは」
 と挨拶をする。これには参った。己を恥じた。都会ではおよそ考えられない光景。しかし昔の日本ではあたりまえの光景が、ここ、能登では古びることなく日常として存在しているのだ。
 そして風景だ。海があり、山がある。
 海もふたつの顔を持っている。
 日本海側の海は激しく厳しい海だ。千里浜海岸を過ぎると、以北の風景は荒磯と断崖に代わる。波と風が時間をかけて削った、荒い、ごつごつとした岩の造形が現れる。能登半島の最北端へ行くまでは、背に山、腹に海、磯沿いの道は誰もが思い描く日本海の風景がつづく。
 半島の最北端から東側の道をくだり、内灘に入ると海の光景も一変する。穏やかでやさしい海が牡蠣を育てている。ひと口に海といっても激しい海とやさしい海が能登にはあるのだ。
 山の美しさも忘れてはならない。
 飛行機で能登空港へ降りようとするときによくわかるけれど、眼下のそれは深く、鮮やかな緑の絨毯のようだ。
 幹線道路を折れて小道を奥へ、奥へと進んでいくと集落にでくわす。陽射しに輝く黒瓦のどっしりとした家が点在し、夕方になると畑の向こうで細い煙があがっていたりする風景は、日本人の誰もが心に描く原風景といっても過言ではない。
 田んぼでは米、畑では野菜、山では栗や林檎がつくられている。
 そして何といっても食べ物だ。
 金沢の居酒屋でのどぐろの塩焼きを食べた感動はどのようにあらわそう。熱々の身は柔らかく、口へ運ぶと淡泊なのに脂あって、噛むと脂の向こうから甘さがあらわれて私の全身をふるわせる。焼き魚といえばキンキとのどぐろにとどめを刺すという私の持論はこのときに確立した。
 それだけではない。蟹、ブリ、甘エビ、イカなど、能登の魚をあげればきりがない。
 さらに野菜だ。さつまいもや金時草、加賀太きゅうりや加賀れんこんなどの加賀野菜、その他にも能登には地味豊かな野菜がたくさんある。
 ブリ大根など、私はそれほど好きではなかった。ところが能登で食べたブリ大根はブリも違えばイカも大根も違う。いしるという、能登地方ならではの魚醬を使っているせいだろうか、深く豊かな海と大地の合唱は大阪で食べるものとはまるで違う一品なのだ。
 こんな嬉しい体験を重ねて、私は能登の人と風景と食に魅了されていく。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

1-10 タイトル変更『海とキリコとアオイ』。


 東京では脚本作業が本格化していた。
 脚本は一挙にあがらない。まずシノプシスといって、短いあらすじのようなもので全体の構成を確認する。キャラクターの性格を整え、シークエンスを整理する。今回の場合は、シノプシスの段階だけで4稿もあげてストーリーを練りに練った。
 構成が固まると、次はハコ書きといって、シノプシスに会話やディテールを加えたものに成長させていく。
 シノプシスがワードの原稿で十枚程度なら、ハコ書きは二十枚ほど。ト書きから会話がメインになってくる。
 そのハコ書きを何度か修正して、いよいよ脚本の原稿となる。
 ハコ書きに移る段階で問題が発生した。
 ストーリーとスケジュールが煮詰まってくると、それまで気づきもしなかったことがいろいろと具体的にみえてくる。
 タイトルへの疑問もそのひとつだった。
 スケジュール的に春先の撮影が無理ということがわかってきた。
 撮影は桜が散った後になる。桜はない、光は初夏か夏の輝きで、はたして『春がきた。』というタイトルが示すような像が撮れるだろうか?
 結局、タイトルを変更することに決まった。大阪での定例会議でも了承された。
 では、どんなタイトルがいいのか?
 監督、脚本家、プロデューサーが頭をひねった。
 これというタイトルがでないので、一度持ち帰って、それぞれが案を出し合うことになった。白羽監督から私にもタイトルを考えるように指示があった。
 年末の十二月二十九日を締め切りに各自が案をメールで提出して、全員で投票。獲得投票の多いタイトルを採用することになった。
 投票結果は実にバラついた。最多獲得投票数は二票で、あとはみんな一票という結果だった。白羽監督と溝上さんが話し合い、結局その最多票のタイトルにすることにした。
 それが『海とキリコとアオイ』。
 キリコはキリコ祭り、アオイはアオイ貝とヒロインの名前、アオイをかけていた。
 なにはともあれタイトルは決まった。そして撮影は二〇〇六年夏に行うことも決定した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

1-11 会議のあとのお楽しみ。


 大阪での定例会議は、A氏のオフィスの会議室で、月に一度のペースで行われていた。
 その席でシナハンの成果が報告され、シノプシスからハコ書きに進展したことが報告された。
 製作をはじめて担当するB氏からは、協力者への効果的な説得方法の相談などもあった。そして毎回、遅れ気味になっているけれど、今後のスケジュールが溝上さんからきっちりと報告され、確認された。
 白羽監督、溝上さん、亀田さんに共通するものがある。それはグルメだということ。
 映画界には食いしん坊も飲んべえも多いが、「本当においしいもの」を探る情熱を持ち合わせている人は少ないという。
 そんなメンバーが取り組む映画だから、『海とキリコとアオイ』は、日本映画ではめずらしい、美味しいものがでてくる映画にしようと企てられていた。
 ただ、美味しいものがでてくるだけではいけない。食材や料理が美味しくみえる、ということが映画的には肝要で、美味しそうに見えて、食欲が湧かなければ取り組む意味がない。
 映画を見終わって「あれ食べたいなー」と思わせたら成功だ。「バベットの晩餐会」のフランス料理のフルコースのように。「初恋のきた道」の愛のきのこ餃子のように。「暗殺のオペラ」のイタリアの稀少生ハム、クラテッロのように。そして「お茶漬の味」で鶴田浩二が勧める中華そばのように。
 食についてなら、大阪は食い倒れの町だ。私も食べることは大好きだ。
 かくして会議のあとは白羽監督と溝上さんと私とで、毎回、大阪のうまいもんを食べ歩くようになった(この時期の亀田さんは、別の映画の撮影現場に入っていてそちらの仕事で精一杯だった)。
 白羽監督が堂山の「新田」へみんなを連れて行けば、次の会議の後は私が千日前の「徳家」へ案内した。やがて大阪寿司の「夷左翁」、串揚げの「知多留」、四川料理の「福龍園」など、白羽監督と競い合ってうまいもん処をまわった。
 溝上さんも会議後の食事をとても楽しみにしているとわかると、さらに店選びにはチカラが入ったものだ。
 食事の後は酒である。
 食だけでなくお酒もみんないける口だったので一次会で終わるわけがなかった。
 堂山の「ムルソー」、曾根崎の「インスパイアー」「北サンボア」、江戸堀の「バー立山」、ミナミの「ナジャ」「チルドレン」などのカウンターでワインやウイスキーを飲んだ。
 夜の会合に参加してよかったことは、白羽監督や溝上さんとコミュニケーションを密にできたことだけではない。映画についての多くの知識、それも現場でたたきあげてきた人からの知識を得ることができたことだ。最新の業界事情も聞けたし、マスコミでは発表できない裏話もたくさん聞けた。
 広告業界ならちっぽけだけれど実績はあるものの、映画についてなら私は右も左もわからない新人だ。夜のカウンターは、私にとって映画の大学になったのだ。
 もちろん、話題の中心にあるのは『海とキリコとアオイ』についてだった。
 どのようにストーリーを展開していこうかとか、能登のあの風習を取り入れると最後のシーンが生きてくるなとか、シノプシスの進展にともなって『海とキリコとアオイ』を育てていくことに言葉が熱くなっていった。
「映画をつくることは誰でもできる。この映画をつくる意義をみつけないと、ただの商業映画になってしまう。そうなると淋しいよね」
 溝上さんの言葉に白羽監督は大きくうなずくと、こんなアイデアはどうかと応えていく。そんな応酬がつづく熱い時間はあっという間に過ぎていく。
 いい歳をした大人が、誰に頼まれたわけでもないし、陽の目をみるかどうかわかりもしない映画について、目を輝かせて議論をする。時間を忘れて話し込む。
 酒の席になると、明るく朗らかな話題だけにならないのが世の常だ。
 いつも女の話になる人がいる。金儲けの話になる人、愚痴になる人、人の悪口になる人がいる。人間、酒を飲んだときは本性が現れるものだ。その点、このふたりは映画の話がほとんどだ。心底、映画を愛しているんだなと思う。
 何事もそうだけれど、人の心を動かすのは熱量だと思う。言葉でもいい。絵でもいい。映画でもいい。芝居でもいい。それを発表するまでにどれだけ考え、議論をして、汗と情熱を注いできたか。それらの総量が観る人、読む人の心を動かすと思うのだ。
 口先や小手先のものに、その先はない。
 私と白羽監督、私と溝上さんは、夜の席を重ねるたびに意気を投合していった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

1-12 印刷台本が完成。


 二〇〇六年、新しい年を迎えた。
 一月の終わりに、撮影中の亀田さんを除く主要メンバーが揃って大阪で新年会を開き、気合いのこもった決意を確認した。
 この十二月から一月にかけては、東京で頻繁に脚本会議が開かれていた。
 そこは近代映画協会、脚本づくりに妥協はない。時間がかかっても納得のいく“ホン”になるまでは何度も書き直していく。
 そして二月二十四日。ついに印刷台本があがった。大阪の定例会議のときにB氏が刷りたての、まだ湯気がでていそうな台本を持ってきてくれたのだ。
 会議テーブルにど¬ーんと積まれた三十冊の印刷台本。
 まだ準備稿と印刷されているけれど、私にとっては初めてみる本物の印刷台本。いままでのパソコンの出力紙とは言葉の重みが違ってみえるのは気のせいだろうか?
 筋肉は鍛えれば太くなる。足腰は走り込めば強くなる。脚本も同じとはいえ、いうだけならやさしいし、誰にでもできる。
 何もないところからここまでカタチにするのに、脚本家の国井さんは何度描き直し、真夜中に何度呻吟したことか?業種は違うとはいえ、物を書くことを生業としている私は国井さんの苦労がわかるので、テーブルに積まれた印刷台本をみていると、身体の奥から込みあげてくるものがあった。
 パラパラとめくっていると私のシーンもちゃんとあった。
 地元の釣り好きの電気屋、西田。セリフも三つくらい用意されていた。
「いよいよここからはじまるのですね」
 A氏も感慨深い声でいった。
 そう、印刷台本があがるまでに時間はかかったけれど、やっとここからはじまるのだ。キャスティング作業にかかれるのだ。
 出演する俳優は誰か?映画のなかで俳優が占める割合は大きい。
 とくに出資者を募る場合、どんな映画かと問われた次には、誰がでるのかと必ず聞かれる。出演する俳優が決定していない映画に資金を提供しようという人は稀だ。
 製作を担当するA氏にとっても、俳優が決まらない間は行動しずらい状況にあったと思う。いよいよここからという言葉は、A氏やB氏の正直な気持ちだと思う。
 白羽監督や溝上さんにしてもそれは同じことだろう。
 五月の撮影まで残された時間はあまりない。キャスティング作業にかかり、制作スタッフを集めるなど、しなければならないことは山積だ。
 印刷台本の完成は、まさにはじまりなのだ。
 その日の定例会議ではA氏を中心にそのことが確認され、これからに向けての決意を新たにした。それぞれの役割を全力で取り組み、スケジュールの遅れを取り戻すことで意見が一致した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

1-13 そしてキャスティングへ。


「海とキリコとアオイ」は、能登で伝説の料理店を開いている男が主人公。世界中を放浪してあらゆる料理を取得したうえで、たどりついた能登の地に惚れ込み、店を開いた男だ。腕は確かで、どんな料理をオーダーされても、いとも簡単にとびきりの一品をつくってしまうが、頑固で無愛想。しかし情は深い。
 そこに東京から新米の料理ジャーナリストの若い女性が取材にやってきて、主人公や能登の人々とふれあう。そのなかで若い女性は、利便性や経済性を優先する都会の暮らしで失われたものを再発見していくとともに、現代人が見落としてきた自然への畏敬、人間らしく心豊かに暮らすことの大切さをみいだしていくという物語。
 このふたりの配役をどうするかが今回の映画の大きなポイントとなる。
 キャスティングで大切なのは「納得と驚き」だ。
「ああ、あの人が」とみんなが納得する一方で、「えっ、あの人が」というサプライズがあってはじめて、映画への興味も映画の感動も生まれてくる。
 主人公役にはさまざまな候補があげられたが、そのなかでもベストと思える俳優が出演を了承してくれた。
「どえらい人がオーケーしてくれた」
 白羽監督は大阪にいた私へ興奮気味の声で電話をしてきた。
 その名は、藤竜也。
 日活の映画『望郷の海』でデビューして以来、映画を主軸に俳優活動をしてきた。日本映画界の大物にして、まだまだ精力的に映画やテレビに出演している。   
 実はキャスティングの会議で候補にあがってはいたものの、私はまさかオーケーしてもらえるとは思ってもいなかった。予算も厳しい、スケジュールも厳しいからだ。
 しかし溝上さんが藤さんの事務所へ脚本を送ると、まもなくして詳しい話を聞きたいという返事があり、実際に事務所に伺って企画の意図を説明すると出演オーケーの返事が届いたのだ。
 承諾の裏には、藤さんの能登への思いもあったという。
 藤さんはこの前の夏に能登半島をひとりで旅したそうだ。そこで出会った風景や人に強く心をうたれ、能登の魅力にどっぷりはまったという。さらにラッキーなことに、八月の藤さんのスケジュールが奇跡的に空いていた。そんな折りに能登を舞台にした映画の企画が舞い込んだのだ。
「全力で取り組みます。いい映画にしましょう」
 藤さんのそんな言葉を伝え聞いた私たちは、喜びに身を震わせた。

・・・第1章終了。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2-1 そして事件。撮影は来年に延期せよ。


「企画している段階が一番楽しんですよね」
 シネハンへ出発する前に溝上さんが洩らした言葉。企画が動きだすとさまざまなトラブルや課題が降りかかってくるからだ。
 映画の制作がはじめての私は、溝上さんの言葉の重さがわからなかった。
未来に対して誰もがそうであるように、辛いことより楽しいことに目が向きがちだし、今後ふりかかるであろうトラブルを予想する際は過小に見積もってしまう。
 しかし事件は突然に起こる。
 それは夢にも思っていなかった出来事だった。前途洋々の海は一転して嵐の海になるような。快適なお湯が突然沸き立つ熱湯になるような出来事だった。
 毎月、脚本やキャスティングの進み具合をA氏やB氏に報告する会議。四月の定例会議で事件は起こった。
 印刷脚本の第一稿もあがり、藤さんの出演も決まり、今回の会議は、これからの撮影に向けたスケジュールと制作費の確認の場だった。
 当初の予定では来月の五月に、A氏・B氏と近代映画協会で製作の契約が結ばれる。この会議ではその詰めを行い、夏の撮影に向けて必要となる制作費のキャッシュフローの確認が行われるはずだった。
 その席上で、A氏から撮影は来年に延期してほしいという提案があった。
 A氏とB氏は事前にすりあわせていたようだけれど、制作サイドにとっては突然の提案で、撮影へ向けて熱くなっている頭へ冷や水を浴びせられたような一言だった。
 思ってもいなかった展開に、白羽監督も溝上さんも、そして私もしばし言葉を失った。
 藤さんの出演が決まったことは喜ばしいことだが、決まるのがあまりにも遅すぎた。出資を募るにしても、一般の企業の人にとっては、どんな物語であるかより、誰がでるかの方が重要で、主演者がなかなか決まらなかったので出資活動は遅れをとっている。我々が出資契約をして当面は肩代わりをすればいいことだが、急いては事をし損じるという言葉もある。焦ってバタバタしてもロクな作品にならないはずだ。ならば思い切って撮影を一年延期すればどうだろう。もっと出資する企業は増えるはずだ。一億の予算が二億にも三億にもなるはずだ。
 それがA氏とB氏の意見だった。
「来年にすると、藤さんの出演もどうなるかわからなくなります」
「役者は他にもいろいろいるでしょう」
 独立系の、予算の少ない映画で大物俳優をキャスティングすることがどれだけ大変なことか、実情を知らない人ならではの意見だった。
 A氏やB氏の気持ちもわからないわけではない。
 脚本を練り込むあまり、印刷台本のアップが遅れ、キャスティングが遅れたのは事実だ。製作サイドと制作サイドのコミュニケーションが密であったかと問われれば、反省しなければならい点も多々あった。
 しかしそれならばもっと前の段階で提案してくれれば対処の仕方もあったというものだ。藤さんの出演が決まり、撮影も四ヵ月後に迫り、出資契約の直前の時期に延期を申し入れなくてもいいんじゃないか。
 私たちは一億円規模の映画をめざしているのであって、A氏がいったような二億円も三億円もかかる映画を撮りたいだなんて誰も考えていなかったのだ。
 一ヵ月前の定例会議で、他のキャスティングが思うようにいかないと困っている制作サイドに、
「大丈夫、雨ふって地固まるということがあります。まだまだこれからです。がんばりましょう」
 といっていた人が、一ヵ月後には延期をいいだすなんてどうしてなんだと私は悲しくなった。
 映画業界は狭いところなので、企画が頓挫するとその情報は一気に広まる。
 延期になった企画は「傷もの」と呼ばれて、俳優もスタッフも次の参加には二の足を踏む。それはそうだと思う。傷ものになるには必ずややこしい理由があるからなのだ。なるべくならそんな作品にかかわりたくないというのが素直な気持ちというものだ。
 だから傷ものにしてはいけない。白羽監督、溝上プロデューサーは必死の説得を試みた。
 確かに時間はあまりないとはいえ、藤さんというカードをみすみす手放すのは惜しい。協力できるところは協力するので、八月の撮影に向けて全力で取り組みませんか?
 しかしA氏とB氏の意志は固く、首をタテに振ることはなかった。製作サイドと制作サイドの溝は埋まらず、話しは平行線をたどったままで時間だけが過ぎていく。
 お互いに言い分はある、それはわかる。動く金額が金額なだけに無闇に首をタテに振ることはできない、それもわかる。しかし制作と製作が対立しては映画づくりは進まない。
 平行線のまま会議を終えた後、溝上さんはすぐに亀田さんに電話を入れて最悪の事態に備えるように指示をした。
「だから素人さんと組むと大変なんですよね」
 溝上さんは自身を責めるような重い口調でそう呟き、監督は
「すみませんでした」
 と頭を下げた。
 その夜の酒は、不吉な爆弾に怯えながら、希望と諦めが交差する重い酒になった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2-2 製作と制作がついに決裂。


 その後も水面下でいろいろな調整を試みたけれど、A氏とB氏が納得することはなかった。また、制作サイドも折れることはなく、藤さんでこの夏に撮影というカードに固執した。
 結局、製作サイドと制作サイドが決裂することで決着はみた。
 条件は、企画開発費の二百万円は、取材費や交通費や脚本料として精算する。いま完成している脚本の著作権は制作サイド側、近代映画協会に帰属する。この脚本を活かすも殺すも制作サイド次第で、今後この企画に関して製作サイドは一切口をださないという契約書がかわされた。
 私は正直にいってショックと混乱のなかにいた。
 夢にまでみた撮影まであと四ヵ月だったのだ。
 そのために毎月定例会議を開き、金沢や能登へ足を運んできたのだ。何度もやり直しをしてぶ厚い企画書を書きあげ、四方八方に映画をつくる、映画にでると吹聴しまくったのだ。それだけではない。私は私なりに少しでも出資が期待できそうな知り合いにはかたっぱしから説明にまわってきたのだ。
 それが突然の頓挫だ。撮影の四ヵ月前になっての頓挫だ。
 正直、どうして頓挫したのか、コトの運びがうまく理解できなかった。
 何がいけなくてこうなったのかよくわからなかった。
 ひとつだけ確かなことは、いざこの夏に撮影しようとしても、お金が一銭もないという事実だった。
 決裂が決定した翌日、白羽監督から連絡があった。明日、会えないかという。
 白羽監督は溝上さんといっしょに東京へ戻り、亀田さんも交えて今後の対策を練った上で大阪へトンボ帰りするという。
 翌日の午後、茶屋町の毎日放送の一階のカフェで会った。
 実は決裂が決まってから、私はひとつのことをずっと考えていた。妻にも相談した。
 映画の活動をこのままつづけていいものかどうか、ということだった。
 私はA氏の誘いでこの企画に参加することになった。筋からいえばA氏サイドの人間ということになる。
 しかし物づくりという共通点をもつ白羽監督や溝上さんとはこの半年でぐっと仲良くなった。決裂騒ぎが起こった会議の席上で
「お前はいつからそっちサイドの人間になったんだ」
 とA氏から嫌みをいわれたほどだった。
 せっかくここまで関わってきたのだからできるなら最後までがんばりたい。しかしA氏が離れた以上、私も身を引くのが筋ではないだろうか。
 このことをずっと考えていた。
 妻は身を引くことを勧めた。
 妻はA氏の気持ちを思う以上に、私の本業がおろそかになることを心配していたのだ。映画にのめりこむあまり事務所が傾いては本末転倒だという。
 確かに事務所の売り上げはいっときに比べると下向ぎみだった。しかしそれと映画は関係ない話だった。
 私は答えを見いだせないまま茶屋町へ向かった。白羽監督に会えば率直に相談してみようと思いながら。
 ところが白羽監督に会うと、監督は私のことなどまったくおかまいなしに一方的にまくしたてるのだった。いつにない厳しい表情で。ときには怒りを滲ませながら。
「とりあえず金をつくらなアカン。正直にいって溝上さんも亀田さんも怒っているし、あきれてもいる。こっちからお願いして入ってもらった企画や。もう一度二人を本気にするには金をつくらなアカン。金をつくらな、なくなるんやで。流れるんやで。ごちゃごちゃいうてる時間はもうないわ。オレたちでやるしかないんや」
 圧倒的な迫力だった。
 まわりの状況も私の立場も、そんなことはおかまいなしだった。わがままといわれようが、自分本意といわれようが、そんなこともおかまいなしだった。ただ目の前の企画が流れることをなんとか阻止したいという、数年ぶりにめぐってきたチャンスをなんとか手にいれたい。ただそれだけに今のすべてを賭けている迫力だった。
 私はそのときに二つのことに心を打たれた。
 ひとつは映画監督の性を垣間見た気がしたことだ。
 ああ、これが映画監督という生き物で、映画をつくるためなら他人の事情や置かれている状況など二の次にしてでも前へ進む力をむきだしにする。
 もうひとつは、危機的状況で頼る相手が私だということだ。
 それは消去法の結果かもしれない。A氏とB氏とは決裂し、溝上さんも亀田さんも熱が冷めかけている以上、残るのはこの私しかいないだけかもしれない。
 しかしそれでも白羽監督がいっしょに動こうといってくれたのはうれしかった。具体的な方法はなかったけれど、私は動く気になっていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2-3 一本の電話に勇気づけられる。


 白羽監督と茶屋町のカフェで話しているとき、監督の携帯電話が鳴った。溝上さんからだった。
「心強いです。ありがとうございます。そうお伝えください」
 電話を終えた監督は少し上気していた。
 溝上さんからの電話は朗報だった。
 映画の企画がこのようなことになったので、藤竜也さんには事情を伝えるべきだと判断した溝上さんは、今日、藤さんの事務所へ伺ったという。
 ここ数日の事情をすべて話した。藤さんが降板することも覚悟のうえの訪問だった。しかし話し終えたあとの藤さんの言葉はある意味、予想を超えるものだった。
「私はこの映画に出演したい。この映画を成立させてほしい。八月のスケジュールは今月一杯キープしておくので、その間に目鼻をつけてほしい。その際、私の名前でいいのなら最大限に利用してもらっていい。ぜひがんばってほしい」
 藤さんはそういってくださったのだ。
 五月一杯といえども時間は二週間しかない。東京と大阪の双方で全力を尽くしましょう。溝上さんも監督にそういった。
 映画は人の想いから立ちあがり、人の想いが動かしていくのだ。
 いまから動いて数週間、数ヵ月で一億という大金を用意できる自信はまるでなかったけれど、一度乗りかかった船だ。可能性が少しでもある限りは動かなければならない。
 私は映画の魅力に取り憑かれていた。映画にでる、でないより、最初から最後まで映画づくりにかかわっていきたかったのだ。
「がんばりましょう」
 白羽監督からその話しを聞いて、私もそう答えた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2-4 某社長にお願い、一千万を約束してもらう。

 お金を集めなければいけなくなった。
 誰に話しをもっていけばいいのだろう?まず頭に浮かんだのは弱冠三十三歳の事業家F氏だった。
 映画の出資の話を聞いてくれる人はたくさんいる。しかしすぐにお金を都合できる人間となると勤め人では無理だ。自分の判断でお金を動かせる経営者しかいない。
 私は以前からF氏の会社の広告やプロモーションのお手伝いさせていただいていた。青春時代をラグビーに捧げ、学生時代には華やかな成績をのこされた方だ。
 仕事や遊びも豪快だが、人間も豪快だ。そのうえ、義理人情に厚く、男気がある。こんな魅力的な人間を世間が放っておくわけがなく、交友関係も広い。
 私は映画の企画が立ちあがったとき、まっさきにF氏に相談にいった。
 そのときは出資業務は私の本業(?)ではなかったので、こんな面白い話があるのですがどうですかねと軽い相談だった。
 しかし今回は違った。何が何でもお金を用意しなければならないのだ。私は忙しいF氏に時間をつくってもらってオフィスへ説明にあがった。
 私はその席で包み隠さず、これまでのいきさつをすべて話した。
 そのうえでお金が必要なこと。ただし返却できるのは映画の公開後だから数年先になること。F氏に断られると他に手だてがないこと。F氏には何のメリットもないこと。すべてを真摯に話した。
 冷静に考えればF氏が首をタテにふる可能性は低い。
 私は冷静ではなかったのだろう。切羽詰まったウサギはライオンに変わることがあるというがそんな勢いだったと思う。映画をつくりたい、企画を流したくない。その想いだけを何度も何度も熱く語った。
 私はこの場で返事を得る心づもりだった。
 冷静に考えれば誰だって断る内容だ。熱意と情熱と勢いしかF氏をくどく手だてはないと思っていた。
 F氏は私の話をきいてしばらく考え込んだ。十分くらいだろうか。私にはかなり長い時間に感じられた。F氏は穏やかな笑顔を浮かべると
「わかりました」
 といってくださったのだ。
「一千万でいいですか。それなら用意しましょう。ただしこれは映画へ出資するのではありません。西林さんの熱意に動かされて用意するのです。西林さんへお渡しするのです。でも、だからって重荷に感じてもらわなくてもいいですよ。映画は水物だということはわかっています。悪くても七百万くらいは返ってくるでしょ。もし儲かったらその分は西林さんが取ってください。まずはいい映画をつくってください」
 私はうれしさのあまり張り詰めていたものがほぐれ、膝から崩れてしまいそうだった。F氏の誠意にどう答えていいのかわからないまま、ありがとうございますと何度も何度も頭をさげるだけだった。
 その帰り、一息いれるために立ち寄ったカフェで、白羽監督と溝上さんに電話を入れた。
「ほんまか。ようやった!」
 白羽監督の弾んだ声がした。
「本当ですか。それはすごい」
 溝上さんも冷静だけれど感心されている様子が伝わった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2-5 タイムリミットは訪れる。


 時間は誰にも平等に訪れ、そして無慈悲に過ぎていく。
 一億円のめどを二週間でたてようと企てる方が無理な話だったのだ。
 案の定というか、お決まりといおうか、東京でも大阪でもさまざまな人にお願いをしたけれど、あまりにも時間がなさすぎた。相手が検討している間に二・三週間なんてあっという間に過ぎていってしまう。
 五月が終わって確約されたお金はF氏の一千万円だけだった。
 私たちに残された道は二つだった。傷ものと呼ばれる覚悟で撮影の延期を決めるか、企画そのものをあきらめるか。
 白羽監督はぜがひでも実現させたいだろう。その気持ちは痛いほどわかる。わかるけれど現実に目をやれば、延期をしたとしてもお金が集まる保証はどこにもないのだ。
 藤さんのこともある。溝上さんは重い足取りで藤さんの事務所へ向かった。
 ご好意で五月いっぱいまで時間をいただいたけれど、めどをたてることができなかったことを溝上さんは藤さんに詫びた。
 するとまたしても思ってもいなかった言葉が藤さんから漏れた。
「私は待っています。満足のいく脚本があがり、撮影ができる日を待っています。それが一年先になるのか、二年先になるのか、十年先になるのかわかりませんが待っています。そしてそのときはどうか真っ先に私に声をかけてください。最優先してスケジュールを調整します。雄一郎役は私がやります。それを忘れないでがんばってください。そしてこれからも私の名前でお役にたてるならどんどん使って資金を集めてください。期待しています」
 事務所からの帰り道、溝上プロデューサーは藤さんの言葉に男泣きをしたという。白羽監督から電話でその話を聞いた私も泣いた。
 傷ものといわれても仕方がない企画に藤さんはそれほどの想いを抱いてくださっているのだ。ありがたい。
 悲観的な空気に包まれていた私たちに、藤さんの言葉が一条の光をもたらしてくれた。
「撮影は来年に延ばしましょう。時間があるから脚本を抜本的に見直しましょうか」
 溝上さんの提案に意義を唱える者はいなかった。
 問題は製作費である。
 今回の映画製作費は一億円を予定していた。
 文化庁が毎年、映画や舞台に助成金をだしている。助成金が降りたとしても最大で製作費の三分の一。通常は満額の七十パーセントが相場という。
 F氏の一千万円と助成金が降りたとして二千万円。残り七千万円を集めなければ撮影に入ることはできない。
 私たちの前に突きつけられた現実だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2-6 ゼロからの石川県行脚。


 まずは石川県の方々に撮影延期になったことの説明に伺わなければならない。
 これまでと大きく異なる点は、いままではB氏の案内で動いていたけれど、これからは自分たちで動かなくてはならないことだ。
 夏の大阪の会議室で、はじめて映画の打ち合わせに参加してから十ヵ月がたとうとしている。その間に私は五度以上も金沢や能登へ入っている。白羽監督の場合は十回ではきかないはずだ。
 その間に地元での支援者は増えていた。
 穴水町の駅前でとびきりおいしい海の幸と寿司をだしてくれる幸寿司の大将、橋本氏と、そこの常連客である、穴水町役場の岡崎氏はその代表格だ。
 インターネットに詳しく、自らもホームページで海の幸を販売している橋本氏が、白羽監督のブログに書き込みをし、それが縁で白羽監督が穴水町を訪れた際に幸寿司へ立ち寄った。店の常連に映画大好き人間がいる。橋本氏はさっそく岡崎氏を呼び、白羽監督に紹介した。三人の間で映画談義に花が咲き、以後、何かにつけて私たちをサポートしてくれている。
 輪島市の大積氏もそのひとり。
 能登半島の食材を販売している「海士屋文四郎」というお店の経営者であり、輪島の商工会議所の要職にもついていらっしゃる方。背の高い男前で、学生時代は大阪の大学の応援団に入っていたという男気溢れる方だ。
 輪島の民宿「深三」の主人の深見さん、七尾の守田さん、能登島で「海とオルゴール」という素敵なカフェを営んでいるさとみさんなど、映画づくりを応援してくださる方の輪は着実に広がっている。
 なかでも忘れてならないのが石川県庁の堀岡氏だ。
 穴水町の岡崎氏の紹介で企画の説明に伺ったのが、二月の中頃だっただろうか。
 堀岡氏は能登空港企画推進課の課長で、能登半島のPRと能登空港の利用促進のために全力を注いでいる方。映画の話をすると、能登のためには願ってもない話だと映画実現のための協力を快く約束してくださった。
 白羽監督と私はそれぞれの方に事情を説明し、今後のことを話した。
 説明後はどなたの顔にも困惑の表情が浮かんだけれど、どうしてこんなことになったんだと責められることはなかった。ありがたいことにみなさんは私たち以上に前向きで、がんばりましょうとか前進あるのみと、逆に励ましてくださった。
 夜になってお酒が入ると本音もちらりと見え隠れして
「いままで映画はみるだけやったけぇ、わからんかったけど、いざつくるとなるといろいろあるんやね」
 と映画づくりの苦労をねぎらってくれる。
 しかし誰もやめようとか一抜けたとはいわなかった。酒が入ると、誰もが明るく、前向きに、これからの映画のこと、能登の今後のことを熱く語り合うのだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2-7 動かない。まったく動かない。


 脚本をさらに発展させよう。どうせなら抜本的に変えようと改定作業が始まろうとしていた。
 能登という魅力的な食材の宝庫を映画の舞台にするのだから、もっと食にこだわって、いままでの日本映画界にはないグルメな映画にしよう。
 私は以前から辻調理師専門学校の広告の仕事をお手伝いさせていただいていた。仲の良い先生方に映画の説明に伺い、料理監修のお願いをすることにした。
 広報室長の小山氏は詩人の顔ももつ文化人で、映画にも明るい方。一生に一度は本格的に映画と関わりたかったなんで、私と同じようなことをおっしゃってうれしくなってしまった。
 教授の肥田先生は若い頃は世界中を放浪して、各地の料理を勉強されたという、映画の主人公、雄一郎の役を地でいかれたような方。料理の知識もさることながら、穏やかな口調で世界の料理について説明される姿には大人の色気のようなものが滲んでいて格好良かった。
 みなさん映画への協力には前向きに取り組んでくださるとうれしい返事をいただいた。
 制作面の体勢は着々と固まっていくけれど、肝心の資金集めはというといっこうにぱっとしなかった。というかまったく動きがなかった。
 自分たちでお金をつくらなければならなくなってからというもの、私と白羽監督は毎月のように金沢・能登入りするようになった。
 手元の手帳を繰ってみるとこんな具合だった。

 五月十七日、金沢。
 五月十八日、七尾、輪島。
 五月二十九日、金沢。
 五月三十日、珠洲、輪島。
 六月十日、金沢。
 六月十一日、輪島。
 六月二十二日、金沢。
 七月二日、金沢。
 七月三日、白山。
 七月十一日、金沢。
 七月十二日、輪島。

 もちろん観光で移動していたのではない。
 私たちは毎月のように金沢入りしているが、観光をしたのは時間潰しのために二十一世紀美術館を訪れたくらいで、私は未だに兼六園に行ったことはない。
 県庁の方や支援者から、この人に話をもっていくといいとか、この企業なら人肌ぬいでくれるはずだという情報や紹介を得て、企画の趣旨を説明に伺うのだ。
 東京へも何度も行った。石川県出身者が経営している企業へ協力をお願いするためだ
 白羽監督と私はどんな小さな糸口だって捨てずにたぐっていった。
 溺れるものは藁をもつかむというやつだ。東京での脚本会議などで白羽監督が動けないときは、私ひとりでも説明に行った。
 しかし動かなかった。
 誰もが私たちの話を聞いてくれる。映画で能登のすばらしさを全国へアピールすることにも賛同してくれる。すばらしい企画だ。応援する。がんばってほしい。みなさんがみなさんそうおっしゃってくれる。
 しかし私たちがいま必要としているのは映画づくりの資金なのだ。金銭面での協力を求めているのだ。
 そのことに話が進むと、にこやかに微笑んでいた顔に陰が射したり、とうとう来たかと横を向かれたり、「うむ」とか「ああ」とか急に言葉が濁ったり表情が曖昧になったりする。応援することと、お金をだすことは別なのだ。そこで空気が冷える。会話がとぎれる。
 時期も悪かった。
 その年の五月に、松竹映画の『釣りバカ日誌十七 あとは能登なれ ハマとなれ』が石川県で撮影されることになっていることは先にも書いた。
 県をあげてロケを招聘したとかで、能登の各市町村にも、人と金の両面からの協力依頼が降りていた。
『釣りバカ日誌』はメジャー映画だから県や市町村への要望もハンパではなく、私たちがお願いにまわっている時期は、無数のイナゴの大群が通り過ぎた後の畑のように、県や各市町村の予算はすっかり食い尽くされてしまっていた。
 思えば支援者の、細く、小さなツテをたよって、たぐって、 監督とふたりで毎月のように行脚しているけれど、あそこに小さな光があると見つけてはよろこび、 近づくとふっ消えてしまって消沈する。
 金沢行きのサンダーバードのなかでは小さな期待に胸を躍らせて、そこはかとなく高揚しながらおしゃべりに花を咲かせて向かうけれど、大阪へ帰る車内では口数も少なく、うなだれぎみに車窓の風景を眺めるか、首を肩に落として眠ってしまう、そんな泣き笑いの連続だった。
 それでも白羽監督はめげなかった。夜になると、うまい魚とお酒で一日の疲れを癒す。
 その席で白羽監督は、
「九回断られても十回目に協力してくれる人と出会えればいい」
 といって笑うのだった。
 この態度は個人的にとても勉強になった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2-8 悲観的になっても一銭の得にもならん。


 カフェで珈琲を飲んでいるときや、バーでお酒を飲んでいるときなど、白羽監督はよくこういった。
「悲観的になっても一銭の得にもならん。ポジティブでいかな何ごともはじまらん」
 白羽監督の言葉が私の胸に響いたのには理由がある。
 私は三十歳のときに独立して自分の事務所を構えた。
 お得意にも恵まれ、時代の風もあって、事務所は順調に右肩あがりの成長をつづけた。
 特に苦労した覚えもなく、仕事を得るためにかけずりまわることもなかった。ただ仕事が楽しかったのだ。飲んだり、食べたりするより仕事が楽しかったのだ。
 土、日曜も関係なく仕事をした。朝一番ののぞみで東京へ行って、一日中打ち合わせをして、最終ののぞみで帰ってきても、新大阪の駅からタクシーで事務所へ戻った。
 若いスタッフも入れ、広告賞も何度か受賞した。家を建て、夏休みは家族でハワイへでかけることもできた。
 無我夢中で仕事をしてきた私は、技を覚え、術を覚えた。
 裸の知覚を忘れ、すれっからしになった私は、人のおかげで今があることを忘れ、成功は自分のチカラによるものだと思うようになった。人に感謝する心を昨日に置き去りにして、自分の実力で明日を拓けると思うようになっていた。
 天狗にもなった。手間ばかりかかる仕事は断った。
 やがて設立をして十年を過ぎたあたりで、何かが止んだ。
 そう、何かが止んだとしか表現しようのない微妙な変化に気づかないまま、他人ができることは自分はしなくていいとうそぶいて仕事をスタッフに任せた。
 当然、売り上げは下がっていく。仕事の減少は時代のせいにしたり、お得意のせいにしたりした。
 実績というのはありがたいもので、事務所の売り上げは年々下がっていくものの、銀行が味方をしてくれて、借り入れでなんとか事務所は維持できた。
 十年以上も事務所を経営していると、いつもいい状態でいることができないことはわかっている。電話もならず、人も訪れない凪の状態のときだってある。これまでにも何度か暇な時期はあった。
 しかしこの一年の凋落はいままでにないものだった。
 いまに良くなるだろう、いまに動きだすだろうと思っていても事態はなかなか進展しない。先の不安は広がる一方で、さすがに焦りを覚える。
 五月の決算は、はじめて赤字になった。
 そんな状態だったから白羽監督の言葉は響いた。
 くよくよしても何もはじまらない。行動あるのみ。いま、この映画の状態のように。私は石川県へ行脚へ向かうたびに勇気づけられて事務所へ戻った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2-9 謎の中東人、登場。


 監督と私が石川県入りすると必ず寄るのが石川県庁の堀岡氏のところだった。
 能登の知名度があがり、能登空港の利用が促進されるのならどんな協力もおしまないと、堀岡氏は私たちの無理なお願いにも首を横に振らず汗をかいてくださる。
 また、文化庁の助成金が降りたらという前提で
「国が支援する映画なら県としても放っておくわけにはいかん。奥能登開発基金からお金を捻出するよう知事に陳情する」
 といい、知事から一千万円の補助金をだす了解を取り付けてくださった。
 それだけではない。映画の記事を書くように地元の新聞社に働きかけてくださったり、石川県や東京の優良企業を紹介してくださったり、外様の私たちではどうすることもできない案件の数々も
「うむ、やってみるわ」
 といって叶えてくださる。
 間違いなく堀岡さんがいなかったら『能登の花ヨメ』は陽の目を見ることはなかったといえる。
 七月二十四日の午後、堀岡さんから電話が入った。
「明日、私の友人の藤岡さんという人が大阪で講演をするので、その前に会って映画の説明をしてもらえんやろか。昨日の夜、藤岡さんに映画の相談をすると面白そうだと乗り気なんや」
 藤岡さんとはニューヨークに在住している投資アドバイザーだそうで、投資アドバイザーといえば金融のプロ中のプロ。しかもニューヨークで、ニューヨーカーを相手に仕事をしているとなれば世界規模のノウハウを持っている人物ということになる。
 運よく大阪で投資に関する講演会を行うので、その前後に私たちに会う時間をつくってくれることになった。
「初対面ですけどわかりますかね」
「大丈夫や。アラブ人みたいな大男で口髭をはやした人がおったら、それが藤岡さんや」
 その言葉を頼りに指定されたヒルトンホテルへ向かうと、本当に中東人みたいに大柄で、りっぱな口髭をたくわえた人がいた。藤岡さんだった。
 藤岡さんはニューヨークで投資アドバイザーをする一方で、石川県にある観光バスの会社「富士交通」の会長も務めている。その関係で年に何度か金沢へ戻ってくるそうだ。
 今回は十日間という短い滞在で、今日、大阪で講演をすませると明日の飛行機でニューヨークへ帰るという。
 少し遅れてやってきた白羽監督とふたりで映画についての説明をした。藤岡さんは映画に関する投資は扱ったことはないが興味はあるという。
「いくら必要なんですか?」
「一億です」
「一億でいいの。それで映画ができるの」
「ハリウッドとは違いますから」
「一億なんてすぐ集まるでしょ。ファンドを組めば一発です」
「だからハリウッドのような映画ではないもので・・・」
 藤岡さんのいる世界や藤岡さんが扱う投資金額が桁違いだったので、はじめはなかなか話しが噛み合わなかった。
 それに日本の映画界ではファンドを組んだ実例はあるものの、まだ一般的な資金集めの手法にはなっていなかった。できればファンド以外の方法で資金を調達していきたいというのが私たちの希望だった。
「わかりました。ちょっと考えてみましょう」
 と藤岡さんはおっしゃって、ニコっと笑った。笑うと子供のような目になる人だった。
 藤岡さんは不思議な人だった。関西にも関東にも、もちろん金沢や能登でもおめにかかったことのないタイプの人だった。
 強いていうならこれがニューヨーカーというものなのだろうか?
 つねにジョークを交えた会話を展開するのでどこから本気でどこから冗句なのかわかりかねることがあった。「ノープロブレム」「問題ない」を連発して、自分が関わる物事はすべてうまくいくと、あの白羽監督を上回るポジティブ志向の人だった。その自信の出所がわからないから、正直、私は軽い混乱を覚えた。
 その翌日、白羽監督は自分のブログにこう書いた。
「神降臨か、真夏の夜の夢か。来週金沢へ。ジャジャーン」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2-10 そして北國新聞事業部へ。


 藤岡さんはその場でさまざまなアイデアとサジェッションを与えてくれた。
「まず、この人に会いなさい。高校時代の同級生ですが、きっとチカラになってくれはずです。私からも連絡を入れておきます」
 その人の名は、北國新聞事業部事業本部長の稲垣氏だった。
 石川県には北國新聞社と北陸中日新聞社という2つの地方新聞社があるけれど、北陸中日新聞社の本社機能が名古屋であるのに対し、北國新聞社は金沢にあることが大きく異なる。
 私は映画の仕事で石川県へ通うようになる前から北國新聞社を知っていた。県内カバー率が七十パーセント以上とずばぬけて素晴らしい新聞社なのだ。地元に密着した地方紙といえども県内カバー率が七十パーセントを超える新聞社はそうあるものではない。
 よく考えていただきたい。県内のカバー率が七十パーセントを超えるということは、石川県民の三人に二人は北國新聞を読んでいるということだ。この影響力や察してしかるべしである。
 後になって私は北國新聞でコラムを書かせてもらったことがある。カラーの紙面で私の写真入りだった。
 掲載の翌日、金沢の繁華街、片町の交差点で信号待ちをしていると、見ず知らずの人から
「あの〜、新聞にでていた人ですよね」
 と声をかけられたことがある。私はそのとき、北國新聞社の影響力をまざまざを知った。
 その事業本部長を紹介されたのだ。白羽監督と私はさっそく翌週に金沢へ入った。
 ニューヨークへ帰った藤岡さんから稲垣さんへはちゃんと連絡が入っていた。そのあたりはさすがにニューヨークのビジネスマン。行動がすばやい。
 話しはそれるが、藤岡さんが私たちの映画づくりに本腰をいれて協力する決め手となったは、私のレスポンスの速さだったという。
 私は関西人特有の“いらち”で、トロトロするのもされるのも大嫌いな性格だった。それでずいぶん損な目や失敗もしたけれど、何ごともちゃっちゃと進めなければ気が済まない。
 携帯電話に留守電が入っていたら気づいた時点でコールバックする。メールが届いたら可能な限りすぐに返事をする。
 ニューヨークの藤岡さんから私の所へ頻繁にメールが届いた。私はすぐに返事を返した。その速さが藤岡さんの心を打ったようだ。
「こんなにすばやく反応するのは本気である証拠だ。情熱のある人との仕事なら失敗するわけがない。だから私も本気になったのです」
 後に藤岡さんは、金沢の「いたる」という居酒屋で、この企画にのめりこむきっかけをこう話してくれた。
 さて、北國新聞社の事業本部長、稲垣さんは上質なスーツをビシッと着こなした紳士だった。
 表情や口調も穏やかだった。やり手とは聞いていたけれど、本当のやり手といわれる人の大半がそうであるように、稲垣さんも物腰が柔らかい。
 おそらく事業本部長ともなれば、日々、さまざまな企画案件が持ち込まれるのだろう。それでも稲垣さんは私たちの話をちゃんと聞いてくれた。すぐに北國新聞社が出資するとはいえないけれど協力は惜しまないとおっしゃってくれた。
「まず、県内で盛りあがることやな」
 稲垣さんはそういうと文化部の記者を呼び寄せ、その場で私たちを取材させた。記事は翌日の朝刊に写真入りで大きく掲載された。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2-11 キリコ祭りを初体験。


「クライマックスにキリコ祭りを描く映画をつくるモンが、キリコ祭りを観たことがないのはアカンのとちゃうか」
 白羽監督の意見はごもっともだった。
 夏はキリコ祭り本番の季節である。白羽監督は七月に七尾かどこかのキリコ祭りを体験していたけれど、私はもちろん、溝上さんも亀田さんもキリコ祭りは観ていないという。
 キリコ祭りとは能登地方に古くからある祭りで、主に七月の初旬から九月の終わりにかけて能登の各地域で行われる。
 祭りには「キリコ」とよばれる巨大な御神燈が担ぎだされ、御輿のお供をして町の人が夜を徹して町内を練り歩く。もともと神輿が行く夜道を照らす行灯の役割を担っていたが、いつからか祭りの主役は御輿からキリコに移り変わっていく。
 壮大な文字が躍るキリコ、雄壮な絵が描かれたキリコ、輪島塗りの見事なキリコ、大きなキリコ、小さなキリコなど、町それぞれに、町それぞれのキリコがある。
 祭りの様式も町それぞれで異なり、男だけが担ぐキリコ、女だけが担ぐキリコ、女装をした男が担ぐキリコ、きらびやか衣装をまとって担ぐキリコなど多種多様。規模も迫力も美しさも、そして歴史もいうことがない祭りなのに、残念ながら全国的な知名度はいまひとつだった。
 私もそうだった。この映画の企画に関わるまではキリコ祭りを知らなかった。
 それならばということで、キリコ祭りのなかでもとくに勇壮で、輪島塗のキリコが練り歩く輪島大祭を観に行くことにした。
 参加したのは白羽監督、溝上さん、同じく近代映画協会の桑原プロデューサー、そして私の四名だ。
 ここに桑原プロデューサーが参加したのは、近代映画協会で舳倉島を舞台にしたドキュメンタリー番組の企画があって、その取材も兼ねていたからだった。
 輪島大祭は輪島の漁師町で行われる。
 朝の八時、自治会長宅へご挨拶にあがった。
 輪島大祭では数十台のキリコが練り歩く。一台のキリコを担ぐメンバーは組と呼ばれ、会長は大北組の組長でもあった。
 会長宅には朝から組員が勢揃いしていて、盛大に御神酒を飲んでいた。
 荒れ狂う海で鍛えた男たちが大声で話しながら豪快に御神酒をあけていく。その間を女たちが御神酒を運び、食べ物を運ぶ。都会育ちの私たちには圧倒される光景だった。
 会長へ挨拶をする。会長はにこやかに応対してくださった。
 すると幹事とおぼしき男性が四つの大きなグラスに御神酒を並々と注ぐと私たちの前へどんと置いた。飲めということなのだろう。しばし目をみあわせる白羽監督とプロデューサーズ。
「はい、いただきます」
 白羽監督の言葉をきっかけにして四人が一気に御神酒をあけた。
 飲み終えると今度はそこにビールを並々とつがたれた。手荒い歓迎である。とはいえ飲まないわけにはいかない。つづけざまに一気にあけた。
「うぉーっ」
 というどよめきが聞こえ、拍手がわき、それまで硬かった組員の顔が一気にほころんだ。
「まあまあ、固い挨拶はもうええっちゃ。さあ、飲め、食え」
 私は会長の横へ座って足をくずした。テーブルには鯛や鮑の刺身が並んでいる。胆をといた醤油でいただいた鮑の刺身は腰が抜けるほど美味しかった。
 夕方、いよいよ祭りがはじまる。
 その日は輪島大祭の初日にあたり、奥津比メ神社大祭と呼ばれている。
「比メ」と名の付く通り、神様は女性。元々は舳倉島にある神社を輪島に移管しているそうで、この神様へ漁の無事を感謝する祭りを執り行うのだ。だから神輿の担ぎ手は女性であるべきなのだが、実際に担ぐのは男性。だから男性が化粧や女装をして担ぐ奇祭でもあった。
 神社から袖ヶ浜の海岸まで女装した男たちが御輿を担いで練り歩く。
 激しい動きに男の足のわらじが切れる。わらじをつくるのも、男のわらじを履き替えさせるもの女の仕事とされていて、道の端では男のわらじを履き替えさせている男と女の光景があって、それはとても愛おしいく、とても素敵な光景だった。
 誰が誰のわらじを変えるのか。誰に変えてもらいたいのか、誰のを変えたいのか。道ばたのその光景からは、きっと数々の小さな物語が生まれては消えていったのだろう。
 海に夕陽が沈みはじめたころ、袖ヶ浜海岸の浜辺で神主さんからお祓いを受けた男たちは、御輿を担いだまま海へ入水していく。海で生きる人々が海への感謝をする一瞬だ。
 この後、神輿は町の中心に戻り、男たちもそれぞれの組へ戻って再び御神酒をあおり威勢をつける。
 日が暮れて、どこからともなく滲んできた闇が町をすっかり覆ってしまうと、それぞれの組の軒先で寡黙に出番を待っていたキリコの灯りがともる。
 通りの角のあちらこちから祭ばやしの太鼓や笛の音がきこえてくる。本番前の祭りばやしは子供たちによるもので、大人のように太鼓や笛を一人前にできるようになるのがこの地の少年少女の夢なのだ。みんな瞳を嬉々と輝かせながら練習している。
 夜の十時前、それぞれのキリコが長い眠りから目覚めるとゆっくり動きだす。漁師会館の前の広場に十数台のキリコが集まる。
 闇に浮かぶ幻想的なキリコは、厳しい一年の暮らしはこの一時のためにあるといっても過言ではない美しさだった。私たちは強烈な祭りばやしと幻想的な美しさに、思わず言葉を飲み、すべてを忘れる。音と光が私たちを放心状態へと導いていく。正直、これほどプリミティブで、それであるがゆえに強く美しい祭りとは思っていなかった。
 やがてお祓いが終わると、一台、また一台とキリコは町のなかへ消えていく。夜中まで町中を練り歩くのだろう。
 キリコが遠ざかるとともに、祭りばやしも遠ざかっていく。すべてのキリコが消え、祭りばやしが彼方へ消えると、思いだしたかのように海の音が夜空から降りてきた。

第2章、終了・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

3-1 終焉の影に怯えながら。それでも動きまわる。


 七月、八月、九月は、私たちにとってどん底の時期だったかもしれない。
 何度も金沢や輪島へ足をはこぶけれど、資金面での具体的な成果は皆無だった。
「まずは映画のシンポジウムを開催して理解を深めるところからはじめよう」
「舞台となるレストランを撮影終了後には本当の店にして観光ポイントにしよう」
「映画学校を開催して、石川県を映像文化の発信地にしよう」
 白羽監督がいろいろな企画を考えて事務所へやってくる。無謀なところや無駄な部分は切り、可能性のある芽をひろって私が企画書にまとめる。できあがった企画書をもって、二人で石川県の協力者へ説明にいく。しかし企画はいいけれど開催資金はどこからも集まらず、企画はいつしかお蔵入りになる。
 資金集めということに限ると地域格差というものをまざまざと感じていた。
 広告の世界の話で恐縮だが、ひとつの広告にかける金額が指一本といえば、東京の場合は一億か一千万を指す。大阪の場合は一桁落ちて、一千万か百万になる。ところが北陸地方へくると、さらに一桁落ちて、百万か十万になる。
 某企業へ映画イベントの件でお願いへ伺ったところ、協賛していただけることになった。担当者は一本くらいとおっしゃったので百万と踏んでいたら、金額は八万円だった。
 そのことを声高に批判しても仕方がない。
東京都民の数は約一千二百万人、大阪府民の数は約八百八十二万人、石川県の県民数は約百十七万人なのだ。そもそも経済規模が違う。ということは同じ一千万の資金を集めるにも、石川県では東京の数十倍の労力が必要ということになる。
 また、その時期の石川県ではさまざまな映画の制作や企画が進んでいた。
松竹映画の『釣りバカ日誌』は前記した通りだが、八月にも羽咋市で『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』の撮影が行われ、映画の企画自体、そうめずらしい話題ではなかった。そのなかで外様の私たちが石川県で、能登で映画を撮る意味や意義を明確化することは、かなり難しい課題だった。
 東京の方での動きも鈍かった。出資者が見つかったという朗報は届かなかった。
 脚本作業の方も同じで、一度、辻調理師専門学校の先生を招いて、料理に関する勉強会を開いたけれど、それを反映した大幅な改訂稿の作業にはなかなか着手されなかった。
 思うに、その頃、溝上さんは思案していたのではないだろうか。
 必ず実現するんだと熱くなって石川県への行脚を繰り返す白羽監督や私と違って、溝上さんは一歩下がって状況を判断できる位置にいる。
 また、F氏からのお金を企画開発費に使うとはいっても、F氏は製作にクレジットされない人物で、いわば善意でお金を融通してくれている人だ。つまりこのお金は必ず返さなければならないお金で、このお金を使って脚本の改訂作業に移った場合、この企画がつぶれたらその不足分は監督とプロデューサーが負担しなければならないことになる。
 目の前に一千万円あるといっても、このお金を使うには企画成立の見通しがある程度たっていなければならないのだ。
 映画は賭けではなくビジネス、というのが溝上さんの哲学なのだ。
 だから脚本家の国井さんにも明確な締め切りを設けていなかった。頭のなかで構想を練っておいてねという曖昧な注文だったようだ。
 金沢や能登の協力者もそうだけれど、溝上さんも亀田さんも、五月の出来事以来、企画が流れる覚悟をどこかでしていたのではないかと思う。
 白羽監督と私だけが、ひたひたと背後から忍び寄ってくる終焉の予感に気づきながらも、いま動かなければ本当に終わってしまうと自身で自身を鼓舞して、わずかな可能性に賭けて動きまわっていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

3-2 はじめての石川県全体会議。


 夜明け前は一番暗いとよくいわれるが、明けない夜もない。
 私たちにとって七月、八月、九月はまさに夜明け前で、目の前はまったく見えない暗闇だった。しかし闇の先がうっすらと明るくなり、その先から光りが洩れるように、ある会議をきっかけにして企画は前進をすることになる。
 これまで石川県や能登の協力者とは個別に会っていた。それぞれに考えがあり、それぞれに意見がある。
 私はふと思ったのだ。三人寄れば文殊のなんとかではないけれど、一堂に集まってこの先どうしていくかを話し合ってもいいのではないかと。
 九月の終わりになると藤岡さんがニューヨークから金沢へ戻ってくる。
 藤岡さんとはニューヨークからメールで、ときには電話で連絡をとりあっていたし、藤岡さんの指示で、金沢や東京の企業へ説明に伺っていた。藤岡さんに有識者会議のことを相談すると
「やろう、それはいい」
 とおっしゃってくださった。石川県庁の堀岡さんにも相談すると
「わかった。県庁の会議室を抑えておくわ」
 と賛同してくださった。
 かくして十月三日の午後三時、石川県庁の会議室で「海とキリコとアオイ」の有識者会議が開かれた。
 制作サイドからは白羽監督、溝上プロデューサー。そして私の3人。
 石川県サイドの集まったメンバーをみて驚いた。藤岡さん、堀岡さんの他に、金沢フィルムコミッショナーの茂野さん、そして北國新聞社の稲垣さんも駆けつけてくださったではないか。
 今日の結果次第では映画の企画そのもののがなくなるかもしれない。気合いの入った私たちは、いつもとちがって全員スーツ姿で出席。七五三のようですなぁと藤岡さんに笑われた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

3-3 賽は投げられた。


 企画した私が会議の進行を担当するが、緊張のあまりうまくしゃべれない。
 酒の席ではにぎやかで饒舌な私だが、関西人なのに緊張しいのあがり症なのだ。その場の空気に馴染むまで時間がかかる。馴染んでしまえばこっちのものなのだが。
 石川県庁の堀岡さんが助け船をだしてくださる。集まっていただいたお礼から今後のことについて堀岡さんを中心として会議が進む。
 その席上、堀岡さんから驚く提案があった。
 石川県としても、私個人としても、能登の活性化のためにこの映画を実現させたい。しかし県から金をだすことはなかなかむずかしい。そこで考えたのだが、前売りチケットを保証するという協力はどうだろう。幸い『釣りバカ日誌』のときにそれぞれの市町村で前売りチケットを購入した実績がある。県をあげて支援した『釣りバカ日誌』と『海とキリコとアオイ』とでは、規模も状況も違うので同じ枚数を確約することはできないけれど、能登を中心に三万枚ほどなら見当がつく。いかがなものだろう?
 堀岡さんはこの会議へ参加するにあたり、私たちの知らないところで真剣に考えてくださっていたのだ。
 私は白羽監督と溝上さんの反応をみた。
 溝上さんは大きくうなずいた。それを合図に白羽監督が機関銃のごとく、堀岡さんの提案がどれほど大きな、意義のあるものなのかを語った。溝上さんも静かな口調でどれほどありがたい提案なのかを語った。
 能登地方だけで前売りチケットが三万枚も確約していだけるということは、一枚が千三百円として三千九百万円の売り上げ、一千円で売ったとしても三千万円の売り上げが確約されたことになる。
 チケット購入の契約書さえかわすことができたら、それを担保に金融機関から制作費を借りることだって可能だ。
 F氏の一千万円に、前売りチケット保証による三千万円。これに文化庁の助成金の二千万円、奥能登開発基金からの一千万を合計すると七千万円が集まる計算になる。
 上映前から三千万以上の売り上げが保証されているとなると配給会社との交渉も有利に進めることができるだろう。
 思ってもいなかった提案に会議は熱を帯びはじめ、最後は軽い興奮状態のなかで終わった。誰もが笑顔だった。誰もが明日への光を見た心持ちになっていた。
 会議終了後、白羽監督、溝上さん、藤岡さん、そして私の四人で香林坊まで戻り、私たちの贔屓の居酒屋「いたる」で祝杯をあげた。
 白羽監督は高揚して顔も言葉もはちきれそうになっている。
 溝上さんが詳しく説明したおかげで、藤岡さんも堀岡さんの提案がどれだけ価値あるものなのかがわかって、それならば私だって他に手だてがあるとアイデアを次々に披露してくれた。それまで何ヵ月も停滞していた企画がやっと重い腰をあげて動きだそうとする手応えを誰もが感じた夜だった。
 藤岡さんと別れてから、私たちはさらにもう一件、白羽監督お気に入りのバー、「広坂ハイボール」へ行った。
 その店へ向かう途中で、溝上さんは東京にいる亀田さんに電話で事の次第を報告している。
「カメちゃん、動くよ」
 溝上さんは白羽監督や私の顔を見て笑った。
 店に入ると溝上さんは
「乾杯しましょう」
 といってシャンパンのボトルを抜いてくれた。
「西林さん、そろそろ腹をくくりましょうか」
 溝上さんはそういって、F氏からの資金を使って本格的に脚本の練り直しにかかろうと提案された。この提案は東京サイドが本気になったことを示す重大な一言だった。
「ダメになったらみんなで弁償しましょう」
「いくら振り込みましょうか?」
「半分ほどいただけますか」
「わかりました」
「じゃ、成功に乾杯!」
 そういって私たちはその夜、何度目かの乾杯をした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

3-4 密かな裏切り。


 金沢の「広坂ハイボール」で、私が溝上さんにいくら振り込みましょうかと聞いたのには理由があった。
 実は、F氏から借りていたお金を、私は自分の事務所のために使い込んでいたのだ。
 もちろん横領する気はなかった。すぐには必要となりそうにないお金なので、その期間だけ事務所の運転資金に借りて、必要となれば返そうと思っていた。
 実をいえばそれほど事務所の経営は貧窮していたのだ。
 決算が終わっても事務所の売り上げはなかなか上向きにならなかった。忙しくなりそうになるのだけれど、すぐに波は引いてしまうのだ。
 私が頻繁に金沢や能登や東京へでかけることができたのも、時間をやりくりした結果ではなく、時間だけはたっぷりあったからだ。事務所にはスタッフがいる。スタッフに仕事を任せると、私には自由になる時間が残ったのだ。
 これがいいことなの悪いことなのかわからなかった。映画にとってはいいことだろう。しかし本業にとっては決していいことではない。明日の資金繰りに困り、F氏から預かったお金に手をだす始末なのだから。
 映画の関係者の間でも、私のことを心配してくれる声はあった。
 脚本家の国井さんは、会うたびに本業は大丈夫なのと心配してくれていた。
 石川県庁の堀岡さんは人生の甘いも酸いも噛み分けた人生の達人だからすべてをお見通しだったようだ。
 後に記述するけれど、藤岡さんも映画にどっぷりはまっていくことになる。
「藤岡さんは分別をもって映画のことをしておる。余裕があるからしよる感じや。けどあんたは違う。せっぱつまっとる。心配や」
 夜の食事の席で堀岡さんがぼそりと私にいった。適当に誤魔化したけれど、見ている人は見ているんだなと、酔いが急激に醒めていったのを覚えている。
 本当はF氏から預かった時点ですぐに『海とキリコとアオイ』の口座へ振り込むつもりだった。しかしさきほども書いたように、溝上さんは状況を見定めているときだった。それほどお金を必要とはしていなかった。
 昨年は銀行からの借り入れでなんとか事務所を維持していくことはできた。決算を赤字にした以上、今期の融資は期待できない。口座にはF氏の一千万円がある。だからつい。いけないとは思いつつ、つい。そのついついが重なって、私は預かっていたお金の半分を事務所の運転資金につぎ込んでいた。
 溝上さんから五百万円が必要といわれたときは、正直ホッとした。それ以上の金額なら融通することができずに横領になってしまうからだ。
 私は溝上さんに事情を説明した。そのうえで残りの五百万円はいつ必要になるのかを聞いた。
 溝上さんは困った顔をしながらも察してくれた。そして残りは撮影の間近までに用意してくれたらいいと教えてくれた。
 撮影は七月を予定していた。それならなんとかなる。
 私の事務所の決算は五月だった。次の決算をなんとしてでも黒字にもっていければ銀行からの融資が受けられる。その一部で返却する。私はそう算段した。
 綱渡りであるけれどやるしかない。映画も事務所もつぶすわけにはいかないのだ。私も後戻りすることはできないのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

3-5 東京サイドもエンジン全開。


 東京では国井さんが招かれて、さっそく脚本の練り直しがはじめられた。
 キリコ祭りをクライマックスにもってくること以外は大幅に書き換えることになった。
 辻調理師専門学校の先生方による講習会の収穫もあって、もっと料理にスポットを当てた映画にすることに決まった。能登は食材の宝庫なのだ。みすみすその事実を見逃す手はない。
 作業としては、また一からである。
 国井さんがシノプシスをあげて、それを検討して、修正して、あがったシノプシスを再び検討してハコ書きへ進化させていく。ハコ書きをさらに検討して、修正して。そんな作業を何度も繰り返す。時間はかかる。待つのも映画の大切な仕事なのだ。
 シノプシスを何度かあげた段階でもう一度シナリオハンティングへでかることになった。白羽監督や溝上さんや私は何度も訪れているけれど、国井さんは去年に一度、あわただしくまわっただけだ。
「ここはひとつ、能登・金沢の空気を吸って、あらためて脚本にリアルな息吹を吹き込んで頂きたい」
 この一年で急に売れっ子になった国井さんを白羽監督と溝上さんが口説いて、なんとか時間をつくってもらった。
 十月二十五日から二泊三日の予定でシナリオハンティングを決行した。
 参加者は国井さん、白羽監督、そして私。
 土地や風景を巡るのも大事だが、土地に生きる「ひと」、その人がつくりだす「味」と出会うこともより重要。金沢のお店で働く方々や、能登の農場で働く方々に取材することをテーマにした。
 初日は金沢市内。近江市場や茶屋街を取材した。
 翌日は穴水町役場の岡崎さんの案内で、能登でとびきりおいしい米をつくっている農家宅を取材した。
 今回のシナリオハンティングの最重要課題として「農業に従事している青年を探す」というのがあった。
 「川原農産」の川原さんは二十九歳の好青年。東京の大学で農業を学んだ後、地元の輪島市町野町へ戻ってきて親といっしょに米や野菜や果物をつくっている。
 農業への情熱と生産理論はハンパではなく、成果となる米や野菜や果物はどれもとびきりのおいしさだった。昼食にいただいたおにぎりや焼き栗は、これまで食べていたおにぎりは何だったのかと疑いたくなるほど絶品だった。
 焼き栗もおいしい。午後に連れて行ってもらった、山の上のリンゴ園のりんごもおいしい。しかしこのおいしさを手に入れるために、日々どれだけの苦労をしていることかと想像してしまうけれど、川原さんは首を振って楽しみなんですと笑う。苦労を苦労と思わず取り組むところからこの味が生まれるんだなと、みんな納得した。
 ちなみに映画の撮影中、川原さんはおにぎりと焼き栗を差し入れしてくれた。お米が大好きな泉ピン子さんは一口食べるなり
「おいしい!」
 とうなり、
「これは橋田先生やスタッフにとどけなくては」
 といって、お米と焼き栗を大量に注文した。それほどおいしいお米と栗なのだ。
 ちなみに川原さんは経営にも意欲的で、首都圏で対面販売をする「青空市場」やネット通販にも積極的に取り組んでいるのだ。
 川原農産を失礼した後は、映画のメイン舞台にどうかと考えている海辺の洋館を視察した。
 白い洋館は能登島を見渡せる海辺という絶好のロケーションにあった。
 内灘の海はとても穏やかで、光を受けて輝いている。建物の前にはパーティーが十分に開ける広さの庭があって、端の方には野菜やハーブが育っている。海辺のレストランとしては理想的だった。
「思い通りの所ね」
 まばゆい海に目を細めながら国井さんは満足そうに呟き、風景や建物をデジタルカメラで撮影した。
 この場所を紹介した岡崎さんは小さくガッツポーズをした。岡崎さんはメインロケ地が穴水のどこかになることが念願なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

3-6 石川県で支援組織が生まれる。


 今回のシナリオハンティングは、地元のテレビ局の報道陣が密着取材をして、数日後、夕方の報道番組で特集として放送してくれた。
 白羽監督は明るくユーモアがあって社交的な人間だから、金沢や能登でもたくさんの友人ができている。テレビ金沢のディレクター、久保さんもそのひとりで、久保さんの企画で取材が行われたのだ。
 ここにきて私たちを取り巻く環境は少しずつ好転しているのは確かだった。金銭的なことにまではまだ波及していなかったけれど、人の対応がとてもやわらかく、好意的になってきているのだ。
 それは新聞社の報道や県庁の堀岡さんの働きかけによるところが大きいと思う。しかしこれだけこまめに足を運んでいる私たちの熱意や誠意がここにきて伝わりはじめているのも確かだと思った。
 地方の人はなかなかよそ者に心を開かないという。しかし一度心を開くと、都会とは比べものにならないほど親密になってくれる。
 十一月の終わり頃になると、県庁の堀岡さんを中心に、輪島市、穴水町、珠洲市の代表の方が集まってくださって、『海とキリコとアオイ』の支援組織をつくろうという話が持ちあがった。
 これは私たちが企画したことではなく、地元からの発案だった。
 能登広域観光協会の理事長、向田さんも忙しいなか駆けつけてくださって、事務局の運営を引き受けてくださることになった。前売りチケットの購入なども、この支援委員会を中心にまとめていただくことが決まった。
 年が明けると、能登広域観光協会の理事会にも招かれて、メンバーの方々に企画の趣旨と協力をお願いして承認された。
 そんな模様はつねに新聞やテレビで報道されたので、私たちの映画の企画が進んでいるということはかなり認知されるようになっていた。
 二月には堀岡さんの案内で、輪島市、珠洲市、能登町、穴水町などの役所と商工会議所をまわり、市長さんや会頭さんにご挨拶してまわった。
 どなたも私たちの映画のことはご存じで、
「ぜひともロケ地はこの町で」
 行く先々でそんなうれしいお願いをされて恐縮した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

3-7 『海辺のテーブル』にタイトル変更。


 十月のシナリオハンティングの成果もあって、シナリオはどんどん成長していった。物語は大きく変わり、エンディングは海を見渡せるレストランの庭で盛大なフレンチの饗宴を描くことになった。
 年が明けると、シナリオの進展にともないタイトルも見直された。
 決まったタイトルは、『海辺のテーブル』。より料理に特化した内容が伝わるタイトルだった。
 二月の終わりについに印刷台本が完成した。
 前回の『海とキリコとアオイ』の台本が完成したときも込みあげるものがあったけれど、今回のアップはさらに感慨深かった。
 うれしいことに、前回の私の役である西田はこの脚本でもなんとか生きていた。
 最後の大阪会議の紛糾から約十ヵ月。何度も何度も金沢や能登に足を運んで、それでできあがったのは一冊の脚本だけじゃないか。金は集まっていないじゃないか。本当に撮れるのか。また、同じことの二の舞になるんじゃないのか。
 そんな声も聞こえてきた。
 製作という面でいえば、確かに課題は山積みである。しかし『海とキリコとアオイ』の場合と『海辺のテーブル』の場合では状況はまるで違う。
 地元で支援委員会が発足した。
 石川県の企業で協賛の話もぼちぼちあがりはじめている。
 北國新聞社の稲垣さんは、あいかわらず私たちの歩みの遅さを心配しながらも、変わらぬバックアップをしてくださっている。謎の中東人、藤岡さんは、ニューヨークから金沢に戻ってくるたびに、私たちの映画のために奔走してくださっている。
 その他にも穴水町の岡崎さん、輪島市の大積さん、能登広域観光協会の向田さん、そして県庁の堀岡さんなど、たくさんの協力者が映画実現へむけて努力してくださっている。
 地元で期待されはじめている。地元が動いている。
 これが前回との一番の違いだ。向かい風がやみ、追い風が吹こうとしているのだ。
 私たちはこの追い風を受けて、キャスティングを固め、出資企業と協賛企業を募り、夏の撮影に入るのだ。いや、入らなければならないのだ。
 そんな決意を新たにしたとき、思ってもいなかった大事件が起こった。
 地震が能登半島を襲った。
 二〇〇七年三月二十五日のことだった。

 第3章終了・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

4-1 三月二十五日の能登半島地震。


 三月二十五日は日曜日だった。
 いつもより遅めに起きて、ねぼけまなこでテレビを見るとはなしに見ていた。そのとき、弱い揺れを感じた。
 地震だ。
 阪神大震災を経験してからというもの、たとえ弱い揺れでもいつかドーンと強い縦揺れが襲ってくるかもしれないと恐怖に怯えるようになっている。恐怖は経験から生まれのだ。
 しかしそのときは弱い地震がつづいた。いつもより長い。
「弱い地震が長くつづくと、どこかで大きな地震が起こった可能性があるんだって。この前の理科の時間に先生がそう言ってた」
 次女がそんなことをいう。
 弱く長い地震が収まってすぐ、テレビで速報が流れた。
 能登で震度六強の地震!
「パパ、大変!」
 速報をみて妻が叫んだ!
 テレビは特別番組に切り替わり、能登の被害が伝わりはじめる。
 輪島や穴水の知り合いに電話をかけた。もちろん伝わらない。電話は緊急時にほとんど頼りにならない。安否を確かめるメールを送るばかりだった。
 白羽監督に連絡をとった。午前中はとりあえず様子を見ようということになった。午後に白羽監督から連絡があって、明日、能登へ入るという。
 白羽監督は阪神大震災の被災者で、親族の方も数名亡くしている。自分の経験を照らし合わせると、いてもたってもいられないのだろう。
「いっしょにいかないか?」
 行きたい気持ちは山々だった。穴水の岡崎さんや橋本さん、輪島の川原さんや大積さんや深見さん、能登島のさとみさん他、みなさんの安否が心配だった。命や身体に別状はないとしても、精神面ではどうか、建物は大丈夫なんだろうか。心配はつきない。
 しかし私のスケジュールは、翌日からの三日間ぎっしり詰まっていた。
「しゃーない。気にせんでええ。オレひとりで行ってくる」
 白羽監督は震災の翌日に輪島、穴水入りをした。
 車には大量のミネラルウォーター、お菓子、そしてサランラップを積んでいた。
 サランラップ?
 お見舞いに行く先々で意図を問われたそうだ。答えを聞いてみんな感動した。
 ライフラインが傷ついている震災後は水が何より貴重だ。食事のとき、皿やお椀にサランラップを巻いてから使うと、食べた後はよごれたサランラップを捨てるだけでいい。皿やお椀を洗う必要がなくなるのだ。
 阪神大震災の被災者しか知らない、被災後の知恵だった。
 また、監督は店を営んでいる人にはいっときも早く営業するように勧めた。
 能登島のカフェ「海とオルゴール」のさとみさんも、地震のあとは悲しみに泣いているばかりだった。
「泣いていても何も前進しない。店が営業できる状態なら店の灯りを灯すことだ。その灯りが被災者のこれからの希望になる。お客は来ないかもしれないが、今は売り上げよりも店の灯りを灯すことが大切なんだ」
 白羽監督の言葉にさとみさんは心動かされ、翌日から営業をはじめた。
 しかし営業したくてもできない人もいた。
 穴水の橋本さんの店「幸寿司」は破滅的な被害を受け、とても営業ができる状態ではなかった。
 橋本さんは気骨のある人だからいつまでも悲しんでいることはなかった。「幸寿司」のファンは多く、再建を望む声はいたるところからわきあがった。
 かくして「幸寿司」は七月九日に新しく店をオープン。穴水の名店として全国にその名をとどろかせている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

4-2 考えて、考えて、再度企画を変更する。


能登半島地震がもたらした被害は地理的なものだけではなかった。
 一番大きな被害は風評被害だ。
 能登はこれといった産業のない町。一番大きな産業といえば観光だ。
 震災後、地震による道路や建物の被害は報道されても、風情被害の大きさはなかなか報道されていなかった。テレビでは家の崩壊や道の陥没は絵になるけれど、観光客の減少を絵にするのはむずかしいからだ。
 地震が能登を襲ったことで、実は私たち制作者も戸惑っていた。
 このまま地震なんて知らないという顔で『海辺のテーブル』を撮るべきなのか?撮っていいものなのだろうか?
 能登から監督が戻り、現状の報告を受けると、私たちの気持ちはひとつに収束していった。観光の町がこれから受けるであろう風評被害を考えると、地震なんて知らないという顔で能登を舞台にした映画を撮れるわけがない。
 私たちは能登の魅力を伝える映画をつくろうとしてこの企画をはじめたのだ。その舞台が震災で傷ついた。ならばその現状を見て見ぬ振りをするのではなく、しっかりと現状を見据えて、能登の将来に少しでも貢献できる映画を撮ることこそが、今の私たちの存在理由ではないだろうか。震災を経てもたくましく、あかるい能登を描くことこそ、日本の映画界で誰よりも能登を熟知した私たちの役目ではないだろうか。
 確かに地震と対峙するとなると脚本の練り直しを強いられる。撮影時期も延ばさなければならないだろう。そうなればこの企画は二度目の延期。二度の傷物企画となる。こんな企画に賛同してくれる俳優やスタッフはいるものだろうか。心配はつきない。
 しかし震災を無視してはこれからの能登は描けない。
 私たちは失うものの大きさを覚悟したうえで二度目の脚本の練り直しを決めた。まもなくゴールデンウィークに入ろうとしている時期だった。
 今からつくり直すのだから夏の撮影には間に合わない。少しだけ時間を延ばして十月のクランクインをめざした。
 藤さんにその旨を告げると、さすがにNGがでた。秋から春までは他の仕事の予定がいっぱいだという。
 藤さんを失うのは惜しい。しかしこればかりは仕方がない。私たちが勝手に延期を決めたことだし、かといって藤さんのスケジュールを待って撮影を延ばすと震災復興の役に立てなくなる可能がある。復興のためには少しで早い方がいいのだ。
 亀田さんが貴重な意見をいった。
 脚本を書き換えるのなら女性を主人公にした物語にしたい。旅行客の大半は女性なのだ。女性に訴える物語にすると、能登を訪れる人は増えるはずだ。
 かくして脚本家の国井さんは再度新しい物語と格闘することになった。それもいままでとはまったく違う物語を。
 発注に際しては、少しでも物語を具体化して、国井さんの負担を軽くするべきだというプロデューサー陣の意見で、溝上、亀田、白羽による脚本合宿が行われた。私も私なりに考えてメールでシノプシスを送った。
 能登半島地震復興支援映画、『能登の花ヨメ』の脚本作業がはじまった。撮影の実に半年前のことだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

4-3 脚本作業と同時進行して。


 脚本作業は急ピッチで進められた。
 またまた前回と同じ行程を一からやり直す。シノプシスからはじまり、ハコ書きに移り印刷へという作業だ。
 今回はいままでとはまるで違う話となっている。
 主人公が男性から女性へ。テーマは料理から能登の人情へ。料理のフルコースから冠婚葬祭を描くことへ。
 国井さんも必死なら、白羽監督、溝上さん、亀田さんも必死だった。
 それでなくても売れっ子の国井さんは徹夜の日々がつづいたという。あまりの忙しさと時間のなさに、ツメの甘い部分もあったそうだが、監督やプロデューサーは容赦なく指摘をして、指摘するだけでなく、不備な部分はみんなでアイデアをだし合って補った。
 今回は前回のような悠長に構えている時間はない。全員で協力してカタチにしていく他はないのだ。
 脚本作業は東京のメンバーにまかせて、私はその間に金沢へ何度も向かい、支援者への説明と協賛企業とのツメの協議していた。
 地震が起きたことで、石川県の人々の私たちを見る目が変わっていた。
 地震は能登の家を壊し、土地を崩しただけではない。観光客の足を止めてしまったのだ。風評被害は確実に広がっていてホテルや民宿ではキャンセルが相次いでいた。
 観光業界の痛手は深刻で、地理的復興の次に風評被害の対策が急務の課題となっていた。
 私たちがこれまでの脚本を捨てて、震災復興を支援する映画へ変更することを報告すると、どなたも喜んでくれた。というより感謝をされた。
 これまでの脚本づくりの苦労をご存知の石川県庁の堀岡さんや穴水町役場の岡崎さんなどは、そこまでしてくれるのかと感に堪えない表情で頭を下げてくださった。
 ここにきてやっと私たちは、石川県や能登の人々に認められてきたのだと思う。それまでは東京や大阪の人間が何かをしているという程度の認識だったはずだ。頼みもしないのに勝手に映画を撮るという連中。口ではいいことをいっているけれど、どこまで信じていいかわからい連中。
 しかしその連中ができあがっている脚本を捨てて、スケジュールも再調整して、映画で震災復興の手伝いをしようとしている。石川県の人間が頼んだわけでもないのに自主的に映画で震災復興の取り組みを行おうとしている。
 オセロの駒が黒から白へ変わっていく手応えを感じていた。
 その変化には足繁く通ったこれまでの地道な活動が物をいったとも思う。地震後に突然やってきて、震災復興の映画を撮りますというような、手前勝手な輩の便乗企画とは違うのだ。
「この事実を記者発表してくれんか?」
 五月の終わり頃に堀岡さんからそんな提案があった。
 それは映画の宣伝になるだけでない。震災で被害を受けている人にも希望の光となるニュースになるはずだ。だからできるだけ早い時期に記者発表をしてほしいと堀岡さんいった。
 会議の席に同席していた藤岡さんも
「それは能登の人のためにも、映画のためにもなる」
 と後押しをした。
 記者発表は妙案だと私も思った。しかしリリースするには足りないものがあった。
 キャストが決まっていないのだ。
 キャストが決まらない映画の記者発表は説得力に欠ける。キャストを決めるには脚本の完成を待たなければならず、そうすると記者発表は一ヵ月も、二ヵ月も先になるかもしれない。
 ましてやキャストも決まっていない企画の記者発表を溝上さんがオーケーするだろうか?近代映画協会でもこんな不確定な段階で記者発表なんてしたことがないはずだ。
 私はその日、午後の飛行機で金沢から東京へ飛んだ。あるアイデアを思いついたのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

4-4 記者会見をする。


 赤坂の近代映画協会には夕方に着いた。
 私は溝上さんに会うなり、石川県サイドの対応がまるで違うこと、映画に対する期待が高まっていることを報告した。そのうえで記者発表を開くことはできないだろうかと持ちだした。
 溝上さんもキャストの問題が障害だといった。
 キャストに関しては、脚本が完成していない以上決めることはできない。とはいえこの映画に興味を持ってくれている俳優さんはいる。映画で震災復興を試みるという行動に賛同の手をあげてくれる俳優さんもきっといるはずだ。
 キャストは出演と発表するのではなく、映画による震災復興という行動に賛同する俳優として発表してはどうか。正式な出演は脚本を読んでからになるけれど、映画による震災復興への試みには少しでも協力したいという熱い気持ちを持っている俳優という紹介ならどうだろう、というのが私のアイデアだった。
 たとえば田中美里さん。
 実は前回の『海辺のテーブル』のときからヒロイン役に田中さんという声があがっていた。脚本も事務所へ持ち込んでいた。石川県は田中さんの出身地である。田中さんなら地元のためにも協力してもらえるのではないだろうか?
 たとえば松尾貴史さん。
 白羽監督との交友も深く、ふたりとも神戸出身。震災復興には人一倍思い入れのある俳優だ。
 そんなことをいうと、溝上さんは
「わかりました。それなら本田博太郎さんも賛同してくださると思います。明日、さっそく各事務所へ相談に行ってきます。そのうえで記者発表を開けるかどうか判断しましょう」
 三日ほどして溝上さんから連絡がった。
「みなさんが賛同してくれました」
 これで記者発表が開ける。
 堀岡さんに連絡するとすぐさま会場をセッティングしてくださった。
 かくして六月二十一日、午後一時から石川県庁の大会議室で、映画『能登の花ヨメ』は記者発表を行い、この映画は能登半島地震震災復興支援映画であることを宣言したのだ。
 出席者は、白羽監督、溝上さん、亀田さん、藤岡さん、そして私。さらに能登広域観光協会の理事長であり、『能登の花ヨメ』の石川県における制作支援委員会の事務局長でもある向田さんも七尾市から駆けつけ出席してくださった。
 記者発表では白羽監督が映画による震災復興について熱く語った。溝上さんがこれまでの経過、二年の変遷を語り、亀田さんが賛同してくれる俳優やスタッフとこれからのスケジュールを紹介した。
 発言のたびに記者のカメラのフラッシュが光り、六台のテレビカメラが発言者の表情を追った。
 その模様は、テレビなら夕方のすべての情報番組で、新聞は翌日の朝刊で大きく報道された。どのテレビも新聞も私たちの取り組みを評価してくれ、期待してくれる内容だった。
 テレビもそうだし、翌日の新聞もそうだけれど、この記者発表の模様はかなり大きく取りあげられたので、『能登の花ヨメ』の認知度は一気に高まった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

4-5 協賛企業が集まりはじめる。


 この映画の資金集めは苦労していることは何度も書いた。
 次の章で詳しく説明するけれど、苦労している理由のひとつにプロデューサー陣のある試みがあったのだ。
 私たちはこの映画を石川県の財産にしたかった。石川県発の、石川県の映画にしたかったのだ。
 そのためには石川県内の企業が中心となって製作資金をださなければ意味がない。東京や大阪の企業が出資すれば、中央がつくった、石川県を舞台にした映画にしかならないからだ。
 真の意味での石川県発の映画をつくる。
 その考えは前売りチケット保証の提案のときにめばえ、年末の頃にはプロデューサー陣は本気でそうしようと考えるようになった。出資や協賛の説明に伺う企業も、その手のことに慣れている東京や大阪のビデオ会社や放送局は避け、石川県内の企業、もしくは石川県と関わりのある企業に絞っていた。
 その際の心強い羅針盤になってくれたのが藤岡さんと稲垣さんだ。
 この二人の交友力には舌を巻くことが何度もあった。石川県内のたいがいの方をご存知なのだ。この二人に堀岡さんを足すと、ほとんどの企業へ説明に伺う道が開かれた。
 特に熱心なのは藤岡さんだった。
 出会った頃はどこまで信じて良いのかわからない、陽気でポジティブなニューヨーカーというイメージだったけれど、実は一度、自分でやると決めたら最後までやり遂げる信念と努力の人だった。
 外様の私たちに代わって協賛企業への根まわしをすべて行ってくれたのは、藤岡さんだといっても過言ではない。
 幸いなことに藤岡さんは会長を務める会社の仕事で、例年になく金沢にいることが多くなっていた。
 私たちが東京や大阪で作業をしている間に、藤岡さんは仕事の関係先のさまざまな企業へ映画協賛の打診をして、反応が良いと見ると私たちによるプレゼンテーションの席を設けてくれた。私たちは月に一度、一泊か二泊して、藤岡さんがセッティングしてくれた企業をまわって、映画の趣旨説明と協賛のお願いをするだけでよかったのだ。
 地道な活動と映画で震災復興を支援するというコンセプト。記者発表を機に、私たちが映画で何をしたいのかが広く伝わり、それまで検討中だった企業が相次いで協力へと動いてくださった。
 石川県にある五つの信用金庫組合、北國銀行、金沢医科大学、NTTドコモ北陸、北陸放送などが協賛へ名乗りをあげてくださった。
 それだけではない。北國新聞も全面的な協力を約束してくださった。
 また、うれしい報告が相次いだ。
 テレビや新聞の報道を見てくださった方々から
「私たちも何かお手伝いできることはありませんか?」
「大きな金額は無理ですが、少しなら金銭面でも応援したい」
 などの声が多数あがったのだ。
 石川県民のその真摯な声は、金沢と能登で一口一万円の募金というカタチにまとまって応援活動が繰り広げられるようになった。募金には個人ばかりではなく、さまざまな企業も参加してくださった。募金は製作費の大きな柱になることになった。
 協賛企業も石川県民の応援も、すべては映画による震災復興という試みに対する期待の表れなのだ。
 白羽監督もプロデューサー陣も、その事実を真摯に受けとめ、より良い映画にするために制作作業に熱が入っていったのはいうまでもない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

4-6 主演女優が決定。


 脚本の印刷アップを待ってからキャスティングにかかっていたのでは十月の撮影に間に合わない。
 溝上さんと亀田さんはハコ書段階の、とはいえかなり完成に近づいた段階のハコ書原稿をお目当ての俳優さんの事務所へ届けることにした。
 前回の『海辺のテーブル』は遠く離れた父と娘の物語だった。今度の『能登の花ヨメ』は百八十度変わって、都会から来た嫁と姑の物語。
 東京で挙式の予定だった若い女性が、夫となる人の母親が交通事故でけがをしたため、海外出張の“夫”に代わって“母”の世話をするために能登へ行く。その能登で、地震に遭ってもめげないで生きる、たくましく、あかるい人々を知る。ぶっきらぼうだけれども、人を慈しみ、自然に感謝して生きる豊かな心を持っていることに気づき、女性の人生観が変わっていく。
 主人公の嫁役には田中美里さんを考えていた。
 ハコ書きを届けた段階で田中美里さんの事務所からは了承の返事が届いた。
「私が演じることで石川県のお役にたてるのならこんなうれしいことはない。ぜひとも参加させてください」
 とても前向きなメッセージも寄せられた。
 問題は“母”を演じる俳優さんだ。
 能登という地で子供を育てあげ、いまでも一人でたくましく生きている女性。やさしいだけではいけない。たくましさときびしさの奥にやさしさをたたえた女性が理想だ。
 溝上さんと亀田さんは泉ピン子さんの事務所へハコ書きを持ち込んだ。
 私はその話を聞いたとき、正直にいって無理だと思った。
 国井さんのおかげだけれど脚本はとてもいいあがりになっていた。しかしテレビであれだけ人気の泉さんだ。スケジュールの調整がつくわけがない。
 ところが返事は
「前向きに検討したい。詳しい話しを聞きたい」
 といううれしいものだった。
 本来なら泉さんは十月の一ヵ月間をオフにするつもりだったそうだ。
 たまたまスケジュールが空いていた。そこへ心動かされる脚本が届いた。また、泉さんは本格的に映画と取り組みたいと思っていた時期でもあった。
 そんな偶然が重なって泉さんはとても前向きになってくれた。
 最後に泉さんの気持ちを押したのは、やはり映画で震災復興に取り組むという姿勢だった。
 泉さんは小さい頃から芸人として苦労されて今日の地位を築いた方。人の苦労には人一倍敏感なんだと思う。困っている人がいたら、自分にできることは何かを常に考える人なんだろう。それも泉さん流のやり方で。
 たとえば伸び悩んでいる若い俳優がいたとする。普通なら相談に乗ったり、やさしい言葉で励ますところだけど、泉さんはあえて厳しい言葉を投げてステップアップするきっかけをつかませようとする。それが泉さん流のやさしさだ。
 新潟県中越沖地震のときもそうだし、能登半島地震のときも泉さんは自分のやり方で被災者を応援していた。
 途中で役職を放り投げてしまったどこかの国の総理大臣とは違って、自分を全面に押しだすことを目的としたパフォーマンスなんて絶対にしない。
 泉さんの名前で義援金を送るとニュースになってしまう。
 泉さんは電話をかけるだけでその電話代の一部が義援金になる番号があると知ると、撮影が終わって家に戻ると毎晩のように電話をかけていたそうだ。
 それも一回や二回ではない。日に何十回も。それを何日も。
 そんな泉さんだから、自分が出演した映画が震災復興の役に立つのであれば、万難を排してでも参加したいと力強くおっしゃってくれた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

4-7 田中さん、泉さんの出演がさらに応援の輪を広げる。


 田中さんの出演が決まったことを石川県の方々に知らせると、誰もが
「ほんとけ!」
 と驚きの声をあげた。
 地元出身の女優、田中美里さんが出演するだけでもニュースなのに、そこに泉さんの出演も報じられると、
「すごい!」
 という声がわきあがり、『能登の花ヨメ』への期待はいがやうえにも高まっていった。
 特に年配の女性の方々が本当にうれしそうな顔をして喜んいるのが印象的で、改めて田中さんや泉さんの人気の凄さを思い知った。
「どこでロケするんや?」
 いく先々で、地元の有力者の方にそう尋ねられるようになった。
「いろいろ候補はあがっているんですが、決定は主要スタッフによる最終のロケハンを終えてからになるんです」
 嘘ではなかった。白羽監督をはじめ、助監督、カメラマン、美術、照明などの技師さんがそれぞれの目で場所を確認してからでないとロケ地は決まらない。
「うちの町でやるやろな」
 とあたりをみまわして小声でそう確認する人や
「ぜひともうちの町でも撮ってほしいもんや」
 と豪快に笑いながらおっしゃる方がいた。
 できるなら自分の町で映画を撮ってほしい、それが能登の人々の本音のようだった。
 穴水町の岡崎さんは、相変わらず絵になる場所を監督に紹介していたし、キリコ祭りの撮影場所に関しては、珠洲市長直々の熱いラブコールがあった。撮影がはじまったら炊きだしをしなければと、いまから頭を悩ませる輪島市の方々もいた。
 北陸放送から密着取材の依頼があり、ゆくゆくは地元の人々と映画スタッフとの交流を中心とした特別番組に仕上げたいという話が持ちあがった。
 北國新聞からも主要な撮影時には必ず取材にいくので撮影スケジュールは決まり次第送ってほしいとの連絡があった。
 半年前には考えられない歓迎ぶりだった。
 東京や大阪でそんな話をすると
「映画が撮れるのも地震のおかげですな。地震様々ですな」
 なんて憎まれ口を叩く人もいた。
 この人たちは能登の現状を知らないからそんな無慈悲なことがいえるのだ。
 能登の人がこれだけ真剣になってくれているのは、それだけ地震の被害が深刻で、藁にもすがる気持ちで私たちの映画に期待してくれているからなのだ。
 確かにここまでの道のりは長かった。
 何度も何度も頓挫しかかったし、想いだけが空まわりする日々がつづいた。
 しかし扉は開かれたのだ。
 金銭的にはまだクリアーしなければならない課題は残されていたが、『能登の花ヨメ』という映画は、それまで横たわっていた巨体をゆっくりと起こして、自分の足で歩みだそうとしているのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

4-8 制作スタッフも決まる。


 東京では俳優と制作スタッフが続々と決まっていた。
 地元のリーダー役に松尾貴史さん。
 NHKの連続ドラマの撮影と重なって厳しいスケジューリングになったけれど、松尾さんの出演は白羽監督と私の念願だったので、なんとか無理をいって時間を調整してもらった。
 近所のおばあちゃん役には内海桂子師匠。
 毎年正月になるとテレビの演芸番組を楽しむのが私の家の昔からの習慣だった。東西寄席の東のトリはいつも桂子・好江の漫才だった。あの桂子師匠がお元気で、いっしょに仕事ができる!お笑い好きの関西人としては、こんなアドレナリンのでる報告はなかった。
 地元の青年役には甲本雅裕さん。
『村の写真集』という映画を観て以来、私は甲本さんのファンだったので出演決定の話を聞いたときには本当にうれしかった。
 震災で夫を亡くして、女手ひとつで幼い子供を育てている海女さん役には松永京子さん。
『パッチキ』のラスト、アンソンの子供を出産するシーンに涙した人は多いと思う。私もあの映画の松永さんの印象が強烈で、いっしょに現場で会えることをとても楽しみにしていた。
 その他にも、水町レイコさん、平山広行さん、池内万作さんなど、続々とキャストが決まっていった。
 同時に制作スタッフも固められていった。時間はかかったけれど、日本映画界を代表するスタッフが揃ったといっても過言ではない。
 それは溝上さん、亀田さんのこだわりによるもので、ある意味、ここまでがんばって企画を進めてきた白羽監督へのプレゼントでもあった。
 白羽監督は十数年振りにメガホンをとるのだ。ブランクを少しでも補えるスタッフを揃えるのがプロデューサーからのお礼という訳だ。
 照明は小野晃さん。
 装飾は山田好男さん。
 録音は武市英生さん。
 一流の技師が揃った。
 そしてカメラマンは山本英夫さん。
 ベネチア国際映画祭金獅子賞を受賞した北野武監督の『HANA–BI』の他、『パッチギ』や『フラガール』や『有頂天ホテル』など数々の名作を手がけ、いまや日本で一番忙しいカメラマンといわれる。
 実は、山本さんは亀田プロデューサーの旦那さん。だからといって私たちも奥さんの亀田さんも、山本さんがカメラをまわしてくれるなんて思ってもいなかった。
 たまたま自宅のテーブルにあった『能登の花ヨメ』の脚本を山本さんが読んで、その感想を亀田さんが聞くと、
「オレ、撮ってもいいよ」
 山本さんがポツリといったという。
 亀田さんもびっくりしたけれど、その話を聞いた白羽監督も溝上さんも私もびっくりした。
 夫婦揃って同じ映画に参加することは初めてのことなので、山本さんの参加は、制作スタッフにとってもうれしいことだし、亀田さんにとっても『能登の花ヨメ』は記念すべき作品になったようだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

4-9 そしてクランクイン。


 スタッフが決まると九月に最終のロケハンが行われ、メインの舞台となる家が決まった。
 穴水町のある築百二十年を超える古い家だった。
 広い家だけれど手入れが行き届いているので、今でも新鮮な空気が通りにぬけている。太い柱は時をたっぷりと吸い、ねっとりとした飴色になっていて、広い家の隅々には未だに闇がこぼれている。都会ではとてもおめにかかれない家には、私たちがいくらお金を積もうが、いまからではとても再現できないような、時の集積による圧倒的な美しさが、玄関にも土間にも、柱にもガラスにも、掛けられている遺影にも時計にも秘められていた。
 家の前は穴水湾の穏やかな海で、その手前には小さな畑もある。
 この家に限らず、桂子師匠演じるフジばあちゃんの家とか、きのこを取りにいく山とか、映画のスタッフは地元の人でも知らないような場所を本当によく探してくるものだと、感心を超えて感動してしまう。
 一方で、撮影が行われる穴水町や輪島市や珠洲市では、私たちの受け入れ体勢づくりが密かに進行していた。
 ロケがはじまるとエキストラの手配から、俳優の送迎車の手配、さらには昼食や夕食時の炊きだしの手配など、撮影隊が恐縮してしまうほどの手厚い支援を受けることとなった。
 特に炊きだしである。
 食事の時間になると、近隣のお母さん方がさまざまなお汁をつくってくれた。
 鰺をつみれ入りの味噌汁、もずく入りの粕汁、キノコ汁、鳥とゴボウのすまし、メッタ汁などなど。どれもこの地ならではのおいしさで、俳優もスタッフも何杯もお代わりをしたのはいうまでもない。
 穴水町の家で撮影のときは、近所のお母さん方がお汁以外にも、ときには牡蠣フライ、ときにはカレー、ときには牛丼、ときには炊き込みご飯など、まるで都会へ出て行った子供たちが帰ってきたときのようなもてなしをしてくださった。
 この静かな集落にこんなに大勢の人間が来ることもなければ、映画の撮影もはじめてのことだったので、当初はとても心配されていたようだが、俳優もスタッフもみんなとてもいい人ばかりなので、お母さん方とも数日で仲良くなると、あとは家族同然の扱いをしてくださった。
「一日でも長くロケをせんね」
 とか
「ほんとは帰らんといてほしんや」
 なんて泣かせるようなことをいって別れを惜しんでくださった。
 歓迎といえば珠洲市の小泊で行われたキリコ祭りの撮影のときのことをいわなければならない。
 キリコ祭りの撮影が行われるというので、集落の人はもちろん、近隣の町や金沢へでている方々もわざわざ戻ってきて祭りを再現してくださった。
 その数、二百人強。
 毎年のキリコ祭りのときもこれだけの人数が集まることはないという。
 聞くところによるとこの集落でキリコを担ぐのは二十年振りになるらしい。
 普段の祭りのときは、これだけの人数が集まらない。だから担ぐことができず、台車に乗せて引くのが精一杯だという。
 しかし今日は映画のロケがあることを聞きつけてたくさんの人が集まってくれたおかげで、台車に乗せて引くだけだったキリコを二十年振りに担ぐことができたというのだ。
 二十年振りに担ぐにあたって 朝から何度も練習を繰り返していたという話も聞いた。
 酒をあおり、声を絞って、 嬉々とした表情でキリコを担ぐ人の姿をみていると、 人はエキストラを超え、シーンは芝居を超えて本当の祭りになっていた。
 映画のストーリーと同様に、それはまさに復活のキリコの光景で、道ばたでは目頭を押さえている老人が何人もいらっしゃった。
「今年は二回も祭りができる」
 と喜んで駆けまわる子供の声がいまも耳を離れない。
 これといった大きなトラブルもなく、逆にうれしい出来事の方が多かった撮影は、それまでの企画段階のときが嘘のように快調に進んでいった。

第4章終了・・・。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

5-1 撮影することが目的ではない。


 撮影が終了した翌日、溝上さん、亀田さん、私のプロデューサー陣は、輪島市、珠洲市、穴水町の役場を訪ねて、市長や町長にお世話になったお礼を申しあげた。そして私はエスティマを運転して大阪へ戻った。
 エスティマは私の仕事関係の師匠筋にあたる制作会社の社長から借りたものだった。
「撮影中は一台でも車が多い方が便利だ。あんたも車でおいでや」
 かねがね白羽監督からそういわれていた。
 その言葉を真に受けていた私は小山社長に相談した。自動車メーカーの仕事を主にしている小山社長は、わかったの一言でエスティマを一台用意してくれ、無料で貸してくれたのだ。
 大阪に戻り、エスティマを洗車して返却したとき、小山社長は
「大きな仕事をしたな。ご苦労さま」
 と私をねぎらってくれた。
 この一言はありがたかったけれど、ご苦労といわれるのはまだ早いと私は心のどこかで思った。
 苦心惨憺して撮影に入った。地元の方々も応援してくださった。新聞やテレビでは連日のように熱烈な報道をしていただいた。おかげで石川県内の人で『能登の花ヨメ』の進捗状況を知らない人はいないんじゃないだろうかというほど知名度はあがった。
 北國新聞に毎日のように掲載される『能登の花ヨメ』の記事を読みたいといって、能登地方では北國新聞を取りはじめる家も多数あったという。
 映画の撮影は祭りに例えられる。
 大勢の人間が参加して一つの物語を撮影していく。連日、現場は熱くなり、一日なんてあっという間に過ぎてしまう。
 撮影が終わると、訪れるのは祭りの後の淋しさだ。潮が引いたように熱も汗も叫びも彼方へ消えると、仕事に比例した大きさの穴が身体や心のどこかにぽっかり開いたようになる。
 しかし撮影の完了は映画の終わりではないのだ。
 特にプロデューサーにとってはそうだ。私たちにはまだまだやることが残っている。
 編集をする一方で、配給会社と打ち合わせてプロモーションのことを考えなくてはならない。映画は撮影するのが目的ではなく、上映して一人でも多くの人に観てもらい、観た人が能登の魅力を再発見してもらうことが私たちの目的であり、映画を観て一人でも多くの人が能登を訪れてくれることが私たちのめざす成果なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

5-2 撮影終了後に北國新聞を訪れた理由。


 撮影が終了した翌週に、溝上さんと私は北國新聞社の稲垣さんを訪れた。
 ある相談をするためだった。
 まずは無事に撮影が終了したことを報告し、これまでの応援と熱烈な報道に感謝の言葉を述べた。
 本題はその先にあった。
 まだ若干資金が不足している事実を告げたうえで、製作委員会のメンバーに入ってもらえないかと相談したのだ。
 北國新聞社にとっては悪い話ではない。
 製作委員会に入るリスクは責任問題が発生することだろう。責任問題で一番こじれるには、撮影に入る前に事業が頓挫して、それまでの負担をどう処理するかという問題だそうだ。
『能登の花ヨメ』の場合はすでに映像を撮り終えている。リスクといえば、不足している資金を製作委員会のメンバーでどう工面するかを考えていくことだけだ。それで『能登の花ヨメ』という映像コンテンツを主体的に、確実に活用していけるのだ。
 ましてや『能登の花ヨメ』の場合、大阪のF氏に借りている一千万円を除けば、文化庁や奥能登開発基金などの公的資金と、返却義務のない企業協賛金で製作費をまかなっていた。
 つまり上映後の売り上げは、約半分が劇場、約四分の一を配給会社がもっていくとしても、残る約四分の一はほぼ利益として計算でき、製作委員会のメンバーで分配できるのだ。
 製作委員会の申し出とそのメリットを聞いた稲垣さんは喜んでくれた。同時に疑問も抱いたようだ。
「どうしてそんないい話を譲ってくれるの?あなたたちで儲ければいいんじゃないの?」
 儲けるという点でいえば稲垣さんの意見は真っ当だろう。
 撮影も終了した。配給会社も決まった。あとは上映後の、ころがりこんでくる利益を計算して喜んでいればいい。
 私たちはそうはしなかった。
 お金のことなら利益の何パーセントかはプロデューサー費としてもらうことができる。ビジネスマンとしては金を儲けることは大切かもしれないが、それ以上にプロデューサーとして挑戦したいことがあったのだ。
 新しいビジネスモデルを立ちあげたかったのだ。本当の意味で石川県発の映画をつくりたかった。究極を言えば石川県の財産になる映像コンテンツをつくりたかったのだ。
 地方を舞台にした映画はたくさんある。いや、地方映画花盛りといっても過言ではない。しかしそれは物語と舞台を地方にしているだけで、実は中央の資本で、中央主体でつくられているものがほとんどだ。
 すると利益は中央にしか落ちない。映像コンテンツの利用も中央主体ということになる。地方の映画のはずが地方の財産とならないケースが多いのだ。
『能登の花ヨメ』ではこの矛盾を打破したかった。
 私たちがめざしたのは、石川県の行政や企業や支援者をネットワークして、資金を含めた製作と制作の環境を整えていく。石川県の資本で、石川県の人とつくっていく。中心になるのが製作委員会で、撮影終了後は製作委員会が『能登の花ヨメ』という映像コンテンツを管理して全国へ発信していく。
 利益も石川県に落ちる。メンバーが石川県の企業なら、利益の一部を震災復興に活かすという案も賛同を得やすい。撮影し終えた映画が、石川県や能登のために役立たなければ、この映画の存在意義がなくなってしまう。
 誰に迷惑をかけることもなく、うまく利益を生み出して、この試みが成功すれば地方映画の新しいビジネスモデルになるだろう。石川県の成功は他の地方にも波及して、自分たちの手で自分たちの映画をつくろうという積極的な動きに拍車がかかるはずだ。
 地方の時代といわれている。文化もどんどん地方から全国へ発信していくべきなのだ。
 その意味でも製作委員会のメンバーには地元の有力企業に参加して欲しかった。
 そう説明すると、稲垣さんは
「よくわかりました。そこまでお考えでしたか。ありがとうございます。さっそく社長に話してみます。社長も喜ばれると思います」
 と理解を示してくれた。
「しかしよくここまでやりましたな。正直なところいつかはポシャると思ってました。いや、めげない勇気というものがあるんですね。勉強になりました」
 そうおっしゃっていただけたけれど、資金面でここまでくるのは本当に大変だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

5-3 石川県発の映画にしましょう。

「本当の意味での、石川県発の映画にしたいんだよね」
 溝上さんがそういったのは、確か『海辺のテーブル』の脚本作業にかかっているときだった。二〇〇六年の終わり頃だっただろうか。
「石川県の映画だから、石川県でお金を集めて、石川県の人と石川県で撮影して、石川県の財産にする。そんなことができれば理想なんだけどね」
「いままでにそんな映画はなかったんですか?」
「ないですね。だって手間暇がかかるでしょ」
 溝上さんがいわんとしていることはわかった。
 前にも書いたけれど、東京と石川県では経済規模が違う。一千万円を集めるにしても、東京なら一社ですむところを石川県なら数社必要になる。ということは手間暇は数倍かかるということだ。
 プロデューサーとしては東京の放送局やビデオ会社と組んで、がさっと製作費を集める方が楽だ。しかしそうすると上映やその後の主導権は東京の会社に握られる。利益が優先されるので地方貢献は後まわしになってしまう。
 それでは地方映画といえども、地方を舞台にした映画であって、地方のための映画でははない。溝上さんは地方の財産となる映画づくりにチャレンジしようというのだ。
 そのためには製作費は石川県内で集めなければならない。中心的役割を担ってくれたのが藤岡さんだ。
 藤岡さんは仕事の関係で十二月のひと月と、二〇〇七年の二月と三月、さらに五月から七月前半まで金沢に滞在することになった。
 その間、白羽監督や溝上さんと私は頻繁に金沢を訪れ、藤岡さんがセッティングする企業の担当者に映画の趣旨説明をしてまわった。しかし二〇〇六年は具体的な成果はまるでなかった。
 中央と地方の違いは経済的なことだけではなかった。
 決断が遅い。というよりまわりの状況をまず確認してから判断する。よく言えば協調性を尊ぶということだけれど、悪く言えば主体性や自主性がないということになる。企業へ説明にいってまず聞かれるのは、
「他にどこへ話をもっていかれましたか?」 
 ということと
「反応はどうでしたか?」
 ということだった。
 はじめは正直に苦戦していることを伝えたが、中央と地方の違いがわかるとこちらも芝居をはじめた。もともと私は関西人。商売におけるはったりは伝統芸のようなものだ。
「ええ、○○さんがけっこう乗り気で。今なら一番乗りはウチやなっておっしゃってました」
 などとはったりをいって相手の気を引いた。
 また、東京の企業と違って、地方の企業の場合は一度の説明で結論がでることはない。断る企業は初回の説明の後で“なかったことに”ということになるけれど、前向きに検討したいとおっしゃる企業には、まずは担当者と、次に上司と、次には役員という具合に、二度も三度も伺わなければならない。
 私たちが月に何度も金沢へ通っていたのは、協賛を検討中の企業へ後押しも含まれていたのだ。
 年が明けるとやっと協賛企業が決まりかかった。この企業に初めてお願いに伺ってからもう三ヵ月がたっていた。
 石川県には、金沢・のと共栄・北陸・鶴来・興能という五つの信用金庫があって、藤岡さんが取引のある金沢信用金庫の方に映画の話を持ち込むと、能登の宣伝になる映画なら地元密着型の銀行としては協力しないわけにはいかないと前向きな返事をくださった。
 二度三度と打ち合わせを重ね、全体会議の席にも招かれ、五つの信用金庫の役員の前で趣旨の説明を行った。協賛金額は理事長会議に委ねることにして、全体会議では協賛への了承を得ることができた。
 これは大きな一歩だった

| | コメント (0) | トラックバック (0)

5-4 地方気質を逆利用する。


 藤岡さんが、まず銀行へ話をもっていったのにはわけがある。藤岡さんは協賛の第一号は銀行か新聞社にと決めていたという。
 これは石川県民の気質を意識したもので、どこが協賛に名乗りをあげるかでその後の展開が大きく変わるからだ。
 おそらく東京の企業が一社目だったら、石川県の企業の重い腰はさらに重くなったことだろう。
 一社目が信頼を第一とする銀行というのも藤岡さんの狙いだった。石川県の企業といえども、誰も知らないIT企業なら反応はもっと鈍かっただろう。
 その意味では信用金庫の決定は大きかった。
 つづいて北國銀行も協賛に参加してくださることになった。
 以後、金沢医科大学、北陸放送、NTTドコモ北陸、大和ハウス工業と協賛会社が決まっていった。
 大和ハウス工業は大阪と東京に本社機能を持つ総合ハウスメーカーで、これほどの企業になると映画やテレビやイベントなど、さまざまな協賛依頼が持ち込まれる。私たちの企画を強力にプッシュしてくださったのが、石川の支店長だった。
「震災復興のために大和ハウスも何かをするべきだし、能登は何といっても前会長が愛された所。協力に際しては『能登の花ヨメ』と他の映画をいっしょにするべきではない」
 本社の上層部にそう直談判してくださったと聞く。
 そして北國新聞社だ。
 企画段階から稲垣さんにはいろいろな相談に乗っていただいていた。それまではあくまでも個人的な範囲に限ってのことだった。
 それまでというのは能登半島地震までのことを指す。
 その後の私たちの対応を知った北國新聞社の社長は、おおかたの石川県の方々同様、私たちを見る目を改めてくださった。
「能登を舞台にした映画の制作を進めていた監督の白羽弥仁さんらが、能登半島地震で脚本の練り直しを思い立ち『能登の花ヨメ』に切り替えることにした。あかるさを引きだし、生きる勇気をわきたたせる映画に、という志に共感する。北國新聞社も協力する」
 “あかるさを描く志がいい”と題された社説の一文で協力を表明してくださった。
 さらに主演が田中さんに決まると、協賛は決定的なものになった。田中さんは北國新聞社のキャンペーンキャラクターを長年務めているからだ。
 協賛が決定してからは何かにつけて記事にしてくださり、そのパブリシティの量は、金額に換算すると莫大な額になるはずだ。
 さらに効果になると、県内カバー率七十パーセントを超える新聞の記事だ、金額に換算すると計り知れない額になる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

5-5 文化庁の助成金という危ない橋。


 映画は賭けではなくビジネスだというのが溝上さんの持論。だから今回の企画段階でも決して無謀なことはしなかった。
 しかし唯一、賭けにでたことがあった。文化庁の助成金に関してだ。
 今回の製作費については当初から文化庁の助成金をあてにしていた。
 文化庁は日本文化の向上のためには、さまざまな芸術活動を広範囲に支援している。
 それは映画に限ったことではなく、文学、音楽、演劇、絵画、舞踏、演芸、さらには伝統芸能と多岐にわたる芸術の振興をはかっている。
 映画に関していえば、「日本映画・映像振興プラン」があって、映画製作の支援や国内外での上映支援、さらには人材支援などを行っている。
 日本で映画を製作する場合、製作者がまず考えるのは「文化芸術振興費補助金」の支援を得ることだろう。
「意欲的な企画作品の映画製作」、「新人監督やシナリオ作家を起用した映画製作」、「地域において企画・制作される映画製作」、そのいずれかに該当する映画企画で、製作費が五千万円以上、上映時間が一時間以上の企画であれば審査に応募することができる。
 公募は年二回行われる。
 支援額は、およそ映画製作に要する費用の三分の一まで。審査に通ったからといって満額降りることはめずらしく、たいていは製作費の三分の一の、その七十%くらいが多い。
 私たちが審査に応募する予定でいたのは、平成十九年度の「地域において企画・製作された映画製作部門」、その第二回目の公募だった。
 能登半島地震によって脚本が大きく変わり、印刷脚本の完成を待って応募するとなると、第一回の公募はとても間に合わない。しかたなく私たちは、締め切りが平成十九年七月二十日の第二回目に応募した。
 審査は有識者で構成されている文化芸術振興費補助金審査員会が行う。各委員が脚本を読んで選定していくのだ。
 プロデューサーによるプレゼンテーションや派手な企画書などは一切受け付けないで脚本の良し悪しだけで選別していく。脚本のできがすべてなのだ。
 第二回の「地域において企画・制作される映画製作」へは十二本の応募があったという。選ばれるのはそのうちの三本。四倍の競争率というわけだ。
 脚本の出来に自信はあったものの、審査である限り百パーセントの確証はありえない。もし落ちるようなことがあれば、奥能登開発基金からの一千万円もなくなってしまう。
 さらに私たちプロデューサーを不安にさせていたのは発表・交付の日だ。
 正式交付は十月十日。
 その日は実に『能登の花ヨメ』クランクインの当日だったのだ。
 能登半島地震によって脚本を練り直し、半年後に撮影という強行軍だったから、文化庁への応募も平行作業になってしまったことは仕方ないことだ。
 問題は万が一、落選した場合だ。
 それでなくても製作費の集まりが鈍いなかで、さらに三千万円相当の金額をどうやって穴埋めすればいいのか?
 集める算段がたたない場合は中止するのか?
 キャストも決まっている。スタッフも決まっている。みんな能登入りをすませて晴の撮影初日を迎えている。そんな状況で中止なんてできるのだろうか?現場が動きだしているのに中止をしたら、プロデューサー陣と白羽監督は、一生、映画界で仕事をすることはできないだろう。
「落っこちたら海へ飛び込むしかないよね」
 溝上さんは自嘲気味に呟いたけれど、それは悪い冗談ともいっていられなかった。落ちたときのことを考えると夜も眠れないというのが正直な気持ちだったはずだ。
 そして結果は、見事合格だった。それも製作費の三分の一の満額、三千百万円が支援されることになった。
 この結果は腰が抜けそうになるほどうれしかった。
 地方を舞台にした映画で、さらに震災の復興を映画で支援する企画が評価されないわけがないとは思った。あれほど修正を重ねて、ときには冷たい空気が流れるほど意見をぶつけあいながら磨きあげていった脚本が落ちるわけがないとも思っていた。
 ただ確証は誰も持てなかったのでつねに不安はつきまとい、つい最悪の事態を想像することをやめることはできなかった。
 目の前では撮影が行われている。その横で東京にいる溝上さんから合格の連絡を受けた亀田さんと私は、うれしさのあまり、思わずその場にしゃがみこんでしまった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

5-6 汗はかくけど、口はださない。


 さて、ここで地方発の映画の撮影にまでこぎつけることができた要因について考えてみたい。
 まだ上映もしていない映画の成功要因なんて気が早いのでは、と思う方もいると思う。地方発の映画ビジネスという点では上映後の結果が肝要だということはよくわかっている。しかし上映はこれからだからその結果については、いまは何も言えない。
 しかし私たちは撮影まではこぎ着けたのだ。上映は目前に控えている。
 映画を作ろうという企画は、毎年、約一千本ほど出回るそうだ。その中から撮影することができる企画は半分以下の三百本くらい。さらに劇場にかかる映画はその中のさらに半分以下の約百本だという。
 ということは、映画の企画は撮影前にぽしゃるものがほとんどということになる。厳しい現状で、時間はかかったとはいえ、私たちは撮影を行うことができた。その要因を考えたってバチはあたらない。
 第一の要因は、地元の方との関係だろう。
 自分たちで企画をすすめなければならなくなってからというもの、私はたくさんの石川県の方々と会った。しかし誰ひとり嫌な人はいなかった。高飛車の人も、高慢な人も、恩義がましい人も、こざかしい人も自分勝手な人もいなかった。
 制作スタッフにもそんな人がいなかったと思う。
 類は類を呼ぶという。私はそれを絶対的な真実だと思っている。人生はすべて自分の合わせ鏡で、自分以上のことも、自分以下のことも起こらない。自分たちがちゃんとしなければ、ちゃんとした人とは巡り会うことはできない。
 石川県の人と、石川県のお金で映画を作っていこうとしたけれど、だからといって石川県の人からああしてほしい、こうしてほしいという要求は一切なかった。石川の方々は、県庁の堀岡さんも、北國新聞の稲垣さんも、冨士交通の藤岡さんも、映画の内容については一切口を出さず、制作スタッフにまかせてくれた。
 これは大きなことだと思う。素人の思いつきほど現場を混乱させるものはない。
 もし、そんな要求がたくさんでて、一つひとつを取り入れていたら、映画はつぎはぎだらけの、地元の人が自己満足するだけのものに成り下がっていただろう。
 また、石川県の人が、金はだし、汗はかくけれど口はださないからといって、制作スタッフは好き勝手をしたかというと決してそんなことはない。ロケ場所や能登の風習など、石川のことは石川の人に聞いて、その意見を尊重して創っていった。
 石川の人は映画のことはあまりよくわからない。映画のスタッフは石川のことはあまりよく知らない。ならば知らない部分や不得意な部分は互いに補っていっしょに創りましょうというのが、今回最後まで貫かれたスタンスだった。どちらが上でも、どちらが下でもない。同じ目標にむかって進む同士・・・。
 単純な話しだけれど、参加する人数の大きなプロジェクトほど、単純なことがむずかしくなる。
『能登の花ヨメ』の場合は、それが実行できた。俳優も含めた映画スタッフと、石川県の人とのつながりは当初の思いを遙かに超えるほど緊密で深いものになった。
 大江千里さんが創った映画の主題歌「始まりの詩、あなたへ」を岩崎宏美さんが歌うことになり、岩崎さんはキャンペーンで何度か金沢入りをした。
 岩崎さんは金沢入りをするたび、地元の方と映画スタッフのつながりの強さに感動して、私ももっと早くこの企画にかかわることができたらよかったのにとおっしゃってくれた。また、遅れを取り戻すために、可能な限り、何度でも金沢や能登へ通いたいとおっしゃってくれた。
 岩崎さんの言葉と想いは、プロデューサーとして本当にうれしかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

5-7 素敵なキチガイがいるか。


 第二には、企画を強力に推進する人がいたことだろう。
 撮影にこぎつけるまでの白羽監督の執念はすさまじいものがあったし、私もそうだし、藤岡さんも、自分の仕事のフィールドを超えた動きをした。その行動が人の心を打ち、人を動かしたのは事実だ。
 ビジネス的観点から見ると、映画づくりに参加することはリスキーなこと以外の何ものでもない。ヒットしたら利益が生まれるかもしれない。あくまでも予測で、行動に対する対価が読めないからだ。
 それでも参加するというのは、お堅いビジネスマンからみれば「?」ということになるのだろう。
 支援をお願いするために企業まわりをしているとき、説明を終えたあとで相手のビジネスマン、特にお堅い企業の方の何人かがこう言った。
「映画って聞けば聞くほど、好きじゃないとできませんね」
「ほんと、儲かりませんからね。好きじゃないとできませんよ」
 相手はにこやかにおっしゃり、私たちもにこやかに返すが、相手の本音はよくもまあこんな危険なことをしているな、ということだろう。
 確かに儲かる儲からないという点でいえば、儲かる仕事は他にいくらでもあるだろう。それでも参加するということは、特に誰に強制されたわけでもないのに参加するということは、好き以外の何ものでもなく、それが他の人から見れば狂気の沙汰に映るのだろう。
 しかし机上でそろばんを弾いているだけの人間に、どれだけのことができるだろう。映画に限らない、どんな仕事でも成果というものは、どこか採算を度外視した行動を行った者にのみ降りてくるものではないだろうか。
 物作りに携わる人間には、特にそういえる。志を高く掲げ、がむしゃにがんばってきたクリエータが会社を興し、経営者になって数年もすると、創るものがまったく面白くなくなるというのはよく聞く話しだ。
 映画の撮影中、撮影監督の山本さんと俳優の本田博太郎さん、そしてプロデューサーの溝上さん、亀田さん、そして私の五人で、輪島でお気に入りの寿司屋さん「伸福」で食事をした時だった。
 韓国の映画監督キム・キドクの話題となり、キム・キドクがいかに素晴らしいのか、いかに狂っているのかについて、山本さんと本田さんが熱く語ったあと、山本さんがこう言った。
「現場で素敵なキチガイと出会いたいんだよ。素敵なキチガイと仕事がしたいんだよ」
 ここで山本さんが素晴らしいなと思ったのは、“キチガイ”ではなく“素敵なキチガイ”と表現したところだ。“素敵な”がつかない“キチガイ”は、現場と作品を混乱させるだけなのだから。
 素敵なキチガイが揃った現場は熱い方向へ転がっていく。企画段階も同じで、素敵なキチガイがいるかいないかで推進力も大きく変わっていく。
 映画の撮影中、私の母が亡くなった。いったん大阪に戻り、野辺の送りを終え、一週間後に現場へ戻ってきたとき、私は泉さんに呼ばれた。
 私がいない間に、泉さんは私のこれまでの取り組みを誰から聞かれたようだ。そして戻ってきた私にこう言った。
「おまえはバカだ。いや、大バカだ。けれど一人くらい大バカがいないと面白いものはできない。世の中、中途半端なバカばかりだからな。母上はちゃんとお見送りをしたな。よし」
 泉さんに頭をさげて、現場へ戻る途中、あまりのうれしさに涙がこぼれた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

5-8 信頼できるプロデュサーの見つけ方。


 次に、映画をつくって地方の活性化を図ろうと企画したとする。誰だっていい人と出会いたい。確かな人と仕事をしたい。さて、どこに相談をもっていけばいいのだろう。
 今回、私がこの映画づくりに参加させてもらって一番ラッキーだったことは、溝上さんというプロデューサーと出会えたことだ。亀田さんも、尊敬できる先輩として溝上さんを慕っている。
「あんたなぁ、初めてやからようわからんと思うけどな、初めての仕事でいいプロデューサーと出会えてんで。この業界はな、見た目は紳士やけど実は詐欺師や山師みたいなプロデューサーがうろうろしているからな」
 映画を企画しているとき、金沢へ向かう車内で、あるいは夜の飲み屋で白羽監督は何度もこの話をした。
 確かに当初は白羽監督のいわんとすることがよくわからなかった。映画の撮影を終えて公開を間近に控えた今ならよくわかる。
 前にも書いたが、映画の企画は年間に一千本近くあがり、その大半が死ぬ。ということは映画を撮りたくても撮れない人がたくさんいるということで、中には撮るためだったら口八丁手八丁、素人を騙してでもという輩もいるという。
 能登半島地震の直後、石川県庁や北國新聞社に震災復興基金をあてにした映画製作の企画がどれほど届いたことか。私はその山を見てびっくりした記憶がある。それ以上にびっくりしたのは、企画自体が金目当ての域をまったくでていない間に合わせのものばかりで、企画の内容になると実にひどいものだったと関係者が嘆いていたことだった。
 金があるとわかると群がる。いや、群がらなくては生きていけない。ある意味、それが映画プロデューサーの悲しい習性なのだ。
 しかし溝上さんは少し違う。
 口数は少ないし、業界っぽいところは少しもない。俳優と飲むより休日に釣りを楽しむ時間を選ぶ人だ。撮影中に立場を利用して女優のメールアドレスを聞き出したり、食事へ誘うより、現場のスタッフと食事をしたり、ホテルの自室で明日の展開を助監督と打ち合わせするような人だ。
 この映画を石川発の映画にしようなんて試みを考えること自体、拝金主義のプロデューサーとは一線を画している。まずは作品のことを第一に考えている。そしてビジネスとして映画を成功させることを考えている。ゆえに俳優からの信頼もスタッフからの信頼も厚い。信頼が厚いから現場はうまくまわっていく。
 実直だから毎年コンスタントに映画を撮ることはできない。しかし実現した作品はどれも良質で、ビジネス的にも失敗するようなことはない。
 しかし初めて映画を企画しようというすべての人が、溝上さんのような人と出会えるとは限らない。
 どうしたらいいのだろうか?
 一番さけたいのは、誰々の知り合いに映画関係者がいるという場合だ。
 その誰々が良質の映画人ならいいけれど、映画人といっても実に多様で、その人がその企画にベストとは限らない。知人の紹介となるとむげに断ることもできず、ホラー映画を得意としている人が地方の人情ドラマをつくるなんてことになるかもしれない。
 地道に作り上げていく人。自分の世界にかたくなにこだわっている人。強引に力業で作っていく人。口先だけで金儲けした興味がない人。プロデューサーにもいろいろな人がいる。
 一番いい方法はレンタル店へ行って、企画の世界に近い作品をピックアップしてその製作者を洗い出すことだろう。十本ほど選んで、そこに重複するプロデューサーがいたら、企画に近い世界を得意とするプロデューサーと見て間違いないだろう。
 重複することはなくても、近い世界のプロデューサーがいたらネットでその人を検索すればいい。映画関係者のプロフィールはかなり細かいところまで整理されているので、検索をかければそれまでに携わってきた作品を知ることができる。
 プロデューサーの人柄を探るには作品を調べればいい。百パーセントとはいいきれないけれど、大人になるとそれまでの生き方が顔に表れてくるように、作品にもその人柄が表れてくるものだ。
 作品と人は切っても切れない関係にあるのだから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

5-9 映画のシステムは変わる。


 その世界にどっぷりはまったものには当たり前のことでも、部外者にとってみれば「?」ということがある。はじめて映画の製作に参加してみるといろいろな発見があった。
いいこともあるし、おかしいと思うこともあった。
 制作スタッフのキビキビとした動きは、やはり気持ちの良いものだった。
 撮影部にしろ、照明部にしろ、録音部にしろ、トップの下にチーフ、セカンド、サードといった若い人たちがついていて、何かひとつでも獲ようという狩人の目を光らせながら、指示のもとでテキパキと自分の仕事をする。原動力は、金ではなく、肩書きでもなく、きっと夢だろうと思わせる職人の誇りや厳しさがすでに肩や背中に息づいているようで、その動きを見ているだけでうれしくなる。
 文句をいうことでしか自身を主張できない大企業の若者とは正反対だ。寡黙に、黙々と動く。間違いなく彼らの動きが映画の質を左右している。
 その昔は広告プロダクションにもこのような若者はたくさんいた。上司の厳しいチェックにも耐え、修正、修正で睡眠時間を削られても、少しでも何かを盗んで上をめざす野良犬のような目をした若者がたくさんいた。
 しかし広告がビジネスとして確立されてからは、“就職”しにきた者が大半になった。昨今の広告の低下は、このことと無縁ではないと思っている。
 一方で映画界が遅れているなと思うことは、制作ではなくビジネスとしてのシステムだ。
 たとえば収益の分配。私はまったく知らなかったけれど、一千八百円の入場料の約半分を劇場がとる。残った半分、つまり一千八百円の四分の一を配給会社がとり、制作には残りの四分の一の四百五十円しか入らないのだ。
 産みの苦しみを乗り越えて制作した者より、劇場を持っている者の方が儲かるのだ。ましてや上映を望む映画はたくさんあるので、劇場の要求は強気になる一方で、ある額以上の宣伝をするのならという条件をつけてくる。
 それでなくても製作費の乏しい独立系の制作会社には辛い現実だ。映画界の人は、長年そのシステムで動いているので、こんな劇場依存型のシステムをおかしいとは思っていないようだけれど、他の世界からきた私にしてみれば制作者の取り分が四分の一だなんて驚きだ。
 制作者の取り分が少しでも多くなれば、同じ質の映画を、少しでも低い製作費で撮ることができるのだ。そうなると映画制作に参加できるハードルはぐっと低くなる。
「パッチギ」や「フラガール」など名作を連発しているシネカノンという会社が、制作と配給以外にも劇場を持つようになったのは、こんな映画界の旧態依然としたシステムへの布告だと思う。
 しかし時代は変わる。映画のシステムも必ず変わる。
 媒体依存型のシステムを確立した広告代理店が、ここにきて苦戦している。いや、変革を余儀なくされている。年々、インターネットにおける広告費の割合が高まっているからだ。
 これと同じことが映画業界にも言えると思う。“映画を観る場所は劇場”という概念がインターネットをはじめとする高速通信網の発達で変わるはずだからだ。
 これまでは劇場上映をあきらめると自主上映しか手段はなかった。今後はインターネットで上映するなんてことも十分考えることができる。有料にしたり、広告をとったりで、収益を得る方法はいろいろと考えればいい。
 この傾向は、地方で映画を作ろうという人には歓迎すべきことで、いままで以上に少ない負担で制作することができるようになるのだ。インターネットの優れたところは、いい物さえアップデートすれば、あっという間に広まるというところにある。
「何いっているんだよ、映画は劇場で観なければ」
 そう言う人はきっといる。
「何がインターネットだよ、広告はテレビだよ」
 と言っていた広告代理店が、今では顔を青ざめさせてインターネット系の優良会社を高い金を払って吸収している。要は、テレビでもいい、イベントでもいい、自分の都合のいいシステムを一番だと思いたいだけなのだ。広告制作者も同じで、テレビCFや新聞やポスターが広告の王道だと思いたい。新しいシステムを認めたくない心が、インターネットを見下したり、否定したりするのだ。
 時代は自分の都合などおかまいなく前進していく。消費者はより便利で、より安いものに引かれていく。
 同じことが映画界にも言えるはずだ。インターネットや高速通信の発達は、確実に映画の観方を変えるだろう。大型の劇場がシネコンへと形態を変えることで生き延びてはいるが、その次のカタチとなると見えていないはずだ。劇場はますます淘汰されていくことになるだろう。
 習慣なんてあっという間に変わる。
 映画は劇場で観るもの、そう信じるところが旧態依然なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

5-10 熱湯に放りこまれた蛙。


 最後に私が使い込んでいた五百万円の結末をいわなければいけない。
 最初に五百万円を映画の口座に振り込んだのは、二〇〇六年十月だった。
 溝上さんは私の事情を察してくれて、残りの振り込みは撮影がはじまるまで待ってくれた。
 いよいよ撮影も間近になると、スタッフの事務費や移動費や宿泊費など、目にみえて出費がかさんでいく。溝上さんから残りの五百万を振り込むようにと指示があったのは七月の終わり頃だった。
 私の算段は、その期の事務所の決算を黒字にして、銀行からの融資の一部で返済することだった。だからその期は是が非でも売り上げをあげて、決算を黒字にしなければならなかった。
 いまから思えば、私は経営者として失格だった。
 使い込んだ資金のために事務所の売り上げをあげなければならないと考えるのが間違いで、事務所の経営という観点にたてば、事務所のために黒字にしなければならなかったのだ。
 私は三十歳で独立をして以来、事務所は右肩あがりの成長をつづけてきた。四十歳あたりが頂点だった。
 広告賞も獲った。事務所も大きくなった。スタッフも雇った。仕事を受け入れる体勢は整っているのに、四十歳以降の売り上げは下降線をたどっていった。電話の鳴る回数が減り、打ち合わせテーブルはに誰もいない時間が増え、事務所の灯りが落ちる時間が早くなっていった。
 凋落の原因がわからなかった。いや、正確にはわかろうとしなかったんだと思う。自分を真摯にみつめ、現状の自分を認める勇気と、時代や状況の変化に対応する柔軟さと、この十年の自分をご破産にして一からやり直すがむしゃらさもないまま、日々の泡におぼれ、夜になると酒で自分をごまかすばかりだった。
 いつも陽気で、忙しい、右肩あがりの頃の西林さんを演じているだけだった。クリエイトすることより、クリエーターであることを演じていたのだ。
 そんなときに舞い込んできたのが映画の話しだった。
 私が『能登の花ヨメ』の制作に参加して一番大きな収穫と思っているのは、映画にでることでも、映画プロデューサーとクレジットされることでもない。見失っていた大切なことに改めて気づいたことだった。それは目標を持つことの大切さと、モノをつくりだす喜びだった。
 三十代の頃はたくさんの目的があった。もともと欲深い方だったので、それまで手にすることができなかったことはみんな手に入れたかった。
 なにをして成功したとするかは人によるけれど、私の場合はあるとき「やった」と思った瞬間があったのだと思う。それは売り上げが億を突破したときかもしれないし、失敗すると思っていたやつらを見返したと思ったときかもしれない。家やら車やら海外旅行やらイタリア物の服など、欲しいと思っていた物をことごとく手に入れたときかもしれない。
 どこかで「あがり」と思ったのではないか。そこから凋落がはじまったのだ。小さな成功に野良犬の目を萎えさせてしまったのだ。ちっぽけな達成にあぐらをかいてしまったのだ。取るに足らない成果に増長して目標を見失ったのだ。
 あの頃は仕事をするのが楽しかった。一枚のチラシ、一枚のポスター、一頁の新聞、一冊のパンフレットをつくることが楽しかった。最後までやり終えて刷りあがりを手にする一瞬が最上の喜びだった。
 楽しいということは手応えがあるということだ。手応えがあるということはステップを登っていることであり、目標に向かって進んでいる証拠だ。目標がなければ楽しみもみいだせない。
 それに気づかせてくれたのが映画に関わったこの二年という月日だ。
 熱湯に蛙をいきなり放り込むとあまりの熱さに飛びだす。しかしぬるま湯に蛙を入れてじわじわ温度をあげていくと蛙はその変化に気づかないまま、どんどん死にむかっていくという。
 思えばぬるま湯に入った蛙が私だった。そのぬるま湯から蛙をひっぱりだし、別の熱湯に放り込んでくれたのが映画だった。
 映画の話しが持ちあがり、私は右も左もわからない世界へ飛び込むことになる。はじめは興味本位、華やかな世界に接したいというミーハー根性まるだしの参加だったけれど、途中からはそんなことはいっていられない状況になった。
 映画を撮りあげたいという一心で金沢や能登へ通い、大阪で話しを聞いてくれそうな人がいれば説明に行き、東京で協力してくれそうな人がいると知れば駆けつける。お金なんて一銭も入ってこないのにこの映画を完成させるという目的のために動きまわる姿は、まるで成功に飢えた野良犬で、それは十年前の私の姿だった。
 金沢で打ち合わせをして、そのまま夕方に東京へ入り、最終ののぞみで大阪へ帰るなんてことができたのも、夢のまた夢と思っていた映画が決して夢ではなく、たとえ子供の歩みほどの速度であっても前進しているという手応えがあればこそだった。
 映画のことならできるのに、事務所の仕事でできないわけがない。
 できなかった理由はただひとつ、目的を見失っていたのだ。
 何をしたいのか、何をめざしているのか、今一度方向を明確にすれば、次に打つ手が見えてくる。私は映画のことで奔走する間に、事務所の停滞の理由がはっきりとつかめてきたのだ。
 おかげで二〇〇七年五月末の決算は、なんとか黒字にもっていくことができた。決算書をとどけて銀行から融資も降りた。そして私はそのなかから五百万円を映画の口座へ振り込むことができた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

5-11 そして最後の最後に。


「ヨーイ、スタートッ!」
 二〇〇七年十月十日の朝、白羽監督の声が響いた。
 映画『能登の花ヨメ』の記念すべきファーストカットは、輪島市稲船倉の棚田で行われた。
 とても気持ちの良い晴天に恵まれ、棚田から見下ろす海はどこまでも穏やかだった。波と風のいたずらで、海のところどころで、ガラスの破片をばらまいたようなキラメキが広がったと思えば消えていく。水平線の向こうには七津島がくっきり見えて、なにかとても縁起のよい初日に思えた。
 ファーストカットは、泉ピン子さん演じる竹原松子が交通事故にあうシーンだった。助監督の谷口さんが運転手役を演じた。
 谷口さんはあの『ブラックレイン』の助監督を務めた方で、うどんを食べる男としても出演している。とても頼りになるベテラン中のベテランなのだ。
 撮影隊から少し離れたところで白羽監督の第一声を聞いたときは、正直、涙がこぼれそうになった。これまでの日々を振り返ると、何度も頓挫しかけたこの企画がよく撮影までこぎ着けたものだと込みあげてくるのだ。
 初日は、この映画づくりに参加してちょうど七百七十六日目にあたる。二年と一ヵ月ちょっと。実にたくさんの水が橋の下を流れていったことになる。
 私は一本の映画を立ちあげるのにこれほどの日数がかかるとは思ってもいなかったし、これほど大変なこととも思ってもいなかった。また、俳優や制作スタッフ以外に、これほど多くの人々、それも映画業界とは関係のない人々の協力が必要だとは知るよしもなかった。
 逆に言えば、これほど多くの人の応援や協力があってできあがった映画もめずらしいのではないかと思っている。大手映画会社の作品ではなく、スポンサーがいるわけでもない、独立系の映画を立ちあげることはとても大変なことだ。
 しかしさらに見方を変えればこうもいえる。誰に頼まれることがなくても、自分にその気と情熱があれば映画はつくることができると。現に私は、それまで映画とはまったく関係のない世界で生きてきた人間なのだ。
 地方の活性化のために映画をつくるのはとてもいいアイデアだと思う。だからこそ、もっといろいろな地域の人にも挑戦してほしいし、いろいろな人が参加できる環境がもっと整うことを切に願う。私の七百七十六日が誰かの心に小さな火花を散らして、日本全国で地方発の映画の企画が立ち上がれが、こんな素晴らしいことはない。
 そして最後の最後に、私の出番について話しておこう。
 実は「能登の花ヨメ」の完成台本には、恐れ多くも西田という役に私の名がクレジットされていた。六シーン、カット数でいうと数十カットも出番があって、クランクインの前に衣装合わせもするなど、それだけをみるといっぱしの役者なみの扱いだった。
 私の初日となるが十月十四日の日曜日。集会所の寄り合いで、主人公の田中美里さんが村の人へキリコ祭りの復活を訴える大切なシーンだった。
 いつもはプロデューサー陣の車で現場まで移動するのだけれど、その日は俳優部の大きな車で、俳優さんといっしょの移動となった。
 現場につき、メイクをしてもらい。衣装を着て、昼食を食べて、あと三十分で本番だというときに私の携帯が鳴った。
 大阪の病院からで、母が危篤状態になったという知らせだった。
 母はC型肝炎から肝硬変、肝ガンというお決まりのコースをたどり、医師からも今年一杯、長くても来年の春までといわれていた。ここ2年間は入退院を繰り返しながらも前向きに生きようとがんばっていた。
 ところが撮影がはじまる五日前に急に体調を崩して入院することになった。医師は私に、急にどうこうということはないと思うけれど、何が起こってもおかしくない状況には違いない、それだけは覚悟しておいてほしいといった。
 母はロケへ旅立つ私を笑顔で送ってくれた。私もロケ中に母が逝くとは思ってもいなかった。
 しかし十月十四日、母の様態は急変した。電話では一刻も早く帰ってくるようにという。
 私はどこかで覚悟していた。母の死もそうだし、役者にしてもそうだ。こうすんなりと役者をできるわけがない、いや、してはいけないのだ。誰もが心のなかではそう思っていたはずだ。しかしプロデューサー陣の意向に意義をとなえるものはいない。誰もいえないから母が死をもっていったのだと私は思う。
 切り替えは早かった。今日無理をしたら最後まで出演しなければ辻褄があわなくなる。しかしいま、西田の役を降りれば、他の俳優さんがカバーしてくれる。西田という役は私でなければならないという役でもなかった。
 白羽監督と溝上さんに事情を話した。泉さんも
「何しているの、早く帰ってあげなさい」
 と後押ししてくださる。私は着たばかりの衣装を脱ぎ、メイクを落として、大阪の病院へ向かった。
 西田の役は、能登出身の勢登さんが演じてくれた。当たり前だけど、私が演じるより勢登さんが演じるほうがずっと自然で、映画の質はあがった。
 大阪へ戻った翌日、母は家族に見守られて逝った。
 母をおくり、諸々の用事をすませて撮影の現場に戻ると、みんなが慰めの言葉をかけてくれた。
「あんたの役、つくらなあかんな」
 白羽監督はそういってくれた。
 田中美里さんも、撮影終了後の食事の席で、
「でないの?でようよ」
 といってくれた。
 甲本雅裕さんも
「ここまで来たんだから、少しでも夢を叶えましょう」
 といってくれた。
 白羽監督や谷口助監督などスタッフみなさんのご好意で、クランクアップの日にちょっとだけ出演させてもらった。それで十分だった。ありがたかった。母の死のあとで涙もろくなっているときだったからスタッフみんなの好意は私のココロをゆさぶり、衣装を脱いでトイレに駆け込むと、止めどなく涙が溢れてきた。
 映画の出したろか、という一言で始まった私の七百七十六日は、こうしてひとつの区切りを迎えた。そしてクランクアップから約半年後の二〇〇八年五月十日、私だけでなく、さまざまな人の想いを一コマ一コマに焼き付けて完成した「能登の花ヨメ」は、石川県先行ロードショーの初日を迎える。    了

| | コメント (0) | トラックバック (0)

トップページ