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5-11 そして最後の最後に。


「ヨーイ、スタートッ!」
 二〇〇七年十月十日の朝、白羽監督の声が響いた。
 映画『能登の花ヨメ』の記念すべきファーストカットは、輪島市稲船倉の棚田で行われた。
 とても気持ちの良い晴天に恵まれ、棚田から見下ろす海はどこまでも穏やかだった。波と風のいたずらで、海のところどころで、ガラスの破片をばらまいたようなキラメキが広がったと思えば消えていく。水平線の向こうには七津島がくっきり見えて、なにかとても縁起のよい初日に思えた。
 ファーストカットは、泉ピン子さん演じる竹原松子が交通事故にあうシーンだった。助監督の谷口さんが運転手役を演じた。
 谷口さんはあの『ブラックレイン』の助監督を務めた方で、うどんを食べる男としても出演している。とても頼りになるベテラン中のベテランなのだ。
 撮影隊から少し離れたところで白羽監督の第一声を聞いたときは、正直、涙がこぼれそうになった。これまでの日々を振り返ると、何度も頓挫しかけたこの企画がよく撮影までこぎ着けたものだと込みあげてくるのだ。
 初日は、この映画づくりに参加してちょうど七百七十六日目にあたる。二年と一ヵ月ちょっと。実にたくさんの水が橋の下を流れていったことになる。
 私は一本の映画を立ちあげるのにこれほどの日数がかかるとは思ってもいなかったし、これほど大変なこととも思ってもいなかった。また、俳優や制作スタッフ以外に、これほど多くの人々、それも映画業界とは関係のない人々の協力が必要だとは知るよしもなかった。
 逆に言えば、これほど多くの人の応援や協力があってできあがった映画もめずらしいのではないかと思っている。大手映画会社の作品ではなく、スポンサーがいるわけでもない、独立系の映画を立ちあげることはとても大変なことだ。
 しかしさらに見方を変えればこうもいえる。誰に頼まれることがなくても、自分にその気と情熱があれば映画はつくることができると。現に私は、それまで映画とはまったく関係のない世界で生きてきた人間なのだ。
 地方の活性化のために映画をつくるのはとてもいいアイデアだと思う。だからこそ、もっといろいろな地域の人にも挑戦してほしいし、いろいろな人が参加できる環境がもっと整うことを切に願う。私の七百七十六日が誰かの心に小さな火花を散らして、日本全国で地方発の映画の企画が立ち上がれが、こんな素晴らしいことはない。
 そして最後の最後に、私の出番について話しておこう。
 実は「能登の花ヨメ」の完成台本には、恐れ多くも西田という役に私の名がクレジットされていた。六シーン、カット数でいうと数十カットも出番があって、クランクインの前に衣装合わせもするなど、それだけをみるといっぱしの役者なみの扱いだった。
 私の初日となるが十月十四日の日曜日。集会所の寄り合いで、主人公の田中美里さんが村の人へキリコ祭りの復活を訴える大切なシーンだった。
 いつもはプロデューサー陣の車で現場まで移動するのだけれど、その日は俳優部の大きな車で、俳優さんといっしょの移動となった。
 現場につき、メイクをしてもらい。衣装を着て、昼食を食べて、あと三十分で本番だというときに私の携帯が鳴った。
 大阪の病院からで、母が危篤状態になったという知らせだった。
 母はC型肝炎から肝硬変、肝ガンというお決まりのコースをたどり、医師からも今年一杯、長くても来年の春までといわれていた。ここ2年間は入退院を繰り返しながらも前向きに生きようとがんばっていた。
 ところが撮影がはじまる五日前に急に体調を崩して入院することになった。医師は私に、急にどうこうということはないと思うけれど、何が起こってもおかしくない状況には違いない、それだけは覚悟しておいてほしいといった。
 母はロケへ旅立つ私を笑顔で送ってくれた。私もロケ中に母が逝くとは思ってもいなかった。
 しかし十月十四日、母の様態は急変した。電話では一刻も早く帰ってくるようにという。
 私はどこかで覚悟していた。母の死もそうだし、役者にしてもそうだ。こうすんなりと役者をできるわけがない、いや、してはいけないのだ。誰もが心のなかではそう思っていたはずだ。しかしプロデューサー陣の意向に意義をとなえるものはいない。誰もいえないから母が死をもっていったのだと私は思う。
 切り替えは早かった。今日無理をしたら最後まで出演しなければ辻褄があわなくなる。しかしいま、西田の役を降りれば、他の俳優さんがカバーしてくれる。西田という役は私でなければならないという役でもなかった。
 白羽監督と溝上さんに事情を話した。泉さんも
「何しているの、早く帰ってあげなさい」
 と後押ししてくださる。私は着たばかりの衣装を脱ぎ、メイクを落として、大阪の病院へ向かった。
 西田の役は、能登出身の勢登さんが演じてくれた。当たり前だけど、私が演じるより勢登さんが演じるほうがずっと自然で、映画の質はあがった。
 大阪へ戻った翌日、母は家族に見守られて逝った。
 母をおくり、諸々の用事をすませて撮影の現場に戻ると、みんなが慰めの言葉をかけてくれた。
「あんたの役、つくらなあかんな」
 白羽監督はそういってくれた。
 田中美里さんも、撮影終了後の食事の席で、
「でないの?でようよ」
 といってくれた。
 甲本雅裕さんも
「ここまで来たんだから、少しでも夢を叶えましょう」
 といってくれた。
 白羽監督や谷口助監督などスタッフみなさんのご好意で、クランクアップの日にちょっとだけ出演させてもらった。それで十分だった。ありがたかった。母の死のあとで涙もろくなっているときだったからスタッフみんなの好意は私のココロをゆさぶり、衣装を脱いでトイレに駆け込むと、止めどなく涙が溢れてきた。
 映画の出したろか、という一言で始まった私の七百七十六日は、こうしてひとつの区切りを迎えた。そしてクランクアップから約半年後の二〇〇八年五月十日、私だけでなく、さまざまな人の想いを一コマ一コマに焼き付けて完成した「能登の花ヨメ」は、石川県先行ロードショーの初日を迎える。    了

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第5章 地方発映画という新しいビジネスモデル。」カテゴリの記事

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