« 2-11 キリコ祭りを初体験。 | トップページ | 2-9 謎の中東人、登場。 »

2-10 そして北國新聞事業部へ。


 藤岡さんはその場でさまざまなアイデアとサジェッションを与えてくれた。
「まず、この人に会いなさい。高校時代の同級生ですが、きっとチカラになってくれはずです。私からも連絡を入れておきます」
 その人の名は、北國新聞事業部事業本部長の稲垣氏だった。
 石川県には北國新聞社と北陸中日新聞社という2つの地方新聞社があるけれど、北陸中日新聞社の本社機能が名古屋であるのに対し、北國新聞社は金沢にあることが大きく異なる。
 私は映画の仕事で石川県へ通うようになる前から北國新聞社を知っていた。県内カバー率が七十パーセント以上とずばぬけて素晴らしい新聞社なのだ。地元に密着した地方紙といえども県内カバー率が七十パーセントを超える新聞社はそうあるものではない。
 よく考えていただきたい。県内のカバー率が七十パーセントを超えるということは、石川県民の三人に二人は北國新聞を読んでいるということだ。この影響力や察してしかるべしである。
 後になって私は北國新聞でコラムを書かせてもらったことがある。カラーの紙面で私の写真入りだった。
 掲載の翌日、金沢の繁華街、片町の交差点で信号待ちをしていると、見ず知らずの人から
「あの〜、新聞にでていた人ですよね」
 と声をかけられたことがある。私はそのとき、北國新聞社の影響力をまざまざを知った。
 その事業本部長を紹介されたのだ。白羽監督と私はさっそく翌週に金沢へ入った。
 ニューヨークへ帰った藤岡さんから稲垣さんへはちゃんと連絡が入っていた。そのあたりはさすがにニューヨークのビジネスマン。行動がすばやい。
 話しはそれるが、藤岡さんが私たちの映画づくりに本腰をいれて協力する決め手となったは、私のレスポンスの速さだったという。
 私は関西人特有の“いらち”で、トロトロするのもされるのも大嫌いな性格だった。それでずいぶん損な目や失敗もしたけれど、何ごともちゃっちゃと進めなければ気が済まない。
 携帯電話に留守電が入っていたら気づいた時点でコールバックする。メールが届いたら可能な限りすぐに返事をする。
 ニューヨークの藤岡さんから私の所へ頻繁にメールが届いた。私はすぐに返事を返した。その速さが藤岡さんの心を打ったようだ。
「こんなにすばやく反応するのは本気である証拠だ。情熱のある人との仕事なら失敗するわけがない。だから私も本気になったのです」
 後に藤岡さんは、金沢の「いたる」という居酒屋で、この企画にのめりこむきっかけをこう話してくれた。
 さて、北國新聞社の事業本部長、稲垣さんは上質なスーツをビシッと着こなした紳士だった。
 表情や口調も穏やかだった。やり手とは聞いていたけれど、本当のやり手といわれる人の大半がそうであるように、稲垣さんも物腰が柔らかい。
 おそらく事業本部長ともなれば、日々、さまざまな企画案件が持ち込まれるのだろう。それでも稲垣さんは私たちの話をちゃんと聞いてくれた。すぐに北國新聞社が出資するとはいえないけれど協力は惜しまないとおっしゃってくれた。
「まず、県内で盛りあがることやな」
 稲垣さんはそういうと文化部の記者を呼び寄せ、その場で私たちを取材させた。記事は翌日の朝刊に写真入りで大きく掲載された。

|

« 2-11 キリコ祭りを初体験。 | トップページ | 2-9 謎の中東人、登場。 »

第2章 ゼロからの石川県行脚。」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1008911/20917742

この記事へのトラックバック一覧です: 2-10 そして北國新聞事業部へ。:

« 2-11 キリコ祭りを初体験。 | トップページ | 2-9 謎の中東人、登場。 »