1-1 映画にだしたろか。その一言からはじまった。
「お前、映画にでたいっていってたよな」
「ええ、夢ですわ。どんな役でもええんです。映画にでて、エンディングロールの役者の欄に自分の名前がでたら死んでもええ」
「だしたろか?」
「ほんまですか?」
夜の遅く、どこかのバーの片隅でそんなやりとりがあり、その夜から私は右も左もわからない映画の世界へ足を踏み入れていくことになる。
私は大学を卒業してからずっと広告の世界で生きてきた。
制作プロダクションに入り、コピーライターの修業をして、三十歳を機に独立をして今に至る。新聞広告、雑誌広告、ポスター、会社案内など、主にグラフィックと称される印刷媒体の広告を得意にしてきた。たまにテレビCFの企画が舞い込むことはあったけれど、映像関係の仕事は稀だった。
私のお得意のひとつにコンサルティング会社がある。ことの発端はそこの社長のA氏だった。
素人にとって映画づくりなんて遠い世界の話だ。誰もがそう思っている。私もそう思っていたし、A氏もそう思っていた。たまたまA氏のまわりに映画監督がいて、話を聞いていると、劇場公開映画といっても智恵と汗を出し合えば低予算でつくることができるとわかった。
A氏の会社はまもなく創業二十周年を迎えようとしていた。
監督の話に心を動かされたA氏は、二十周年を記念した行事に映画制作も悪くないという気になった。
A氏はまわりの人にこの話をした。
石川県にある印刷会社の社長B氏が関心を抱いた。B氏は能登を舞台にした映画をつくることで、能登の活性化がはかれないかと考えたのだ。
石川県のB社長が一千万、大阪のA氏が一千万。あとは文化庁の助成金や関係者の出資を募れば一億円くらいの算段はつくということになった。
そうとなれば本格的な制作体制が必要となる。
映画監督が奔走して、東京の老舗の映画制作プロダクション「近代映画協会」の溝上プロデューサーと亀田プロデューサーの協力を得ることに成功した。
東京から二人のプロデューサーが大阪へやってくる。初めての会議が開かれる一週間前、私はA氏と食事をしていて、そのときに冒頭の会話となったのだ。
オレは金をだす側だからオレがいえばおまえを映画にだすくらいはどうにでもなる。その代わり、なにぶん映画関係のことはわからないので会議に同席することと、映画のプロモーションはお前が引き受けるというのが条件といわれた。
私にしてみればそんなことでいいのならお安いご用だった。
そして翌週、私はA氏のオフィスへ向かった。1-1 映画にだしたろか。その一言からはじまった
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